「都をどりはよーいやさー」の掛け声で始まる舞妓・芸妓たちの踊りは、目と耳で楽しむものといえる。その後に祇園、花見小路付近の料亭で、舌(味)の醍醐味を経験するもよし。1872(明治5)年の初演以来、4月の京都、「祇園甲部歌舞練場」で繰り広げられる舞台は、京の伝統のおもてなしといえる。2024(令和6)年には「祇園 花街芸術資料館」が開設された。花街の文化の展示のほか、「京舞」の観賞、「歌舞練場本館」の見学、舞妓・芸妓との記念撮影など、伝統を体感できる施設となっている。
京都の女性たち、おもてなしの文化
「都をどり」(祇園) 舞妓・芸妓の舞姿が観客を魅了する MAP __
「大原女」 近郊の里から都に物資を運ぶ女性たちMAP __(大原女の小径)
平安時代、大原、白川、桂などの近郊から京の街に農産物や雑貨を行商にくる女性「販女(ひさめ)」が現れた。京の北部に位置する大原からは、炭・薪・柴といった燃料が運ばれ、鎌倉時代頃から「大原女(おはらめ)」と呼ばれるようになった。明治期以降、京の市中に燃料販売店が増加すると大原の薪・柴は商品として卸されることも増え、戦後には家庭で電気・ガスの普及も進み、「大原女」による燃料の行商は昭和30年代頃に姿を消した。写真は明治後期の「大原女」。頭上には風呂敷を載せているが、右に薪・柴の束と思われるものも写っている。
現在、「時代祭」の行列では「大原女」「白川女」「桂女」を見ることができる。「白川女」は切り花など、「桂女」は鮎・飴など、地域の特産物を行商していた。「大原女」の装束は、建礼門院(平清盛の娘で大原に隠棲していた)に仕えた侍女、阿波内侍(あわのないし、「寂光院」第二代住持)の着物姿が原型ともいわれる。
祇園の老舗のお茶屋「一力亭」 MAP __
「一力亭」は江戸前期の1689(元禄2)年創業といわれる祇園のお茶屋で、当初は「万亭」という屋号であった。江戸中期の1748(寛延元)年に上演された浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の中で、大星由良助(史実では大石内蔵助)が敵を欺くため「一力茶屋」で豪遊する、という創作された部分があり、その店名は祇園「万亭」の「万」を「一」と「力」に分けたものであった。『仮名手本忠臣蔵』が大当たりすると、実在の「万亭」も芝居の中で使われた「一力」と呼ばれるようになった。
「八坂神社」の「南楼門」前 室町時代創業の「中村楼」 MAP __
「八坂神社」は飛鳥時代創建ともいわれる古社。1868(明治元)年までは「祇園社」と呼ばれていた。室町時代には境内に茶屋が営まれるようになったといわれる。茶屋は「石鳥居」と「南楼門」の間、西側に「藤屋」があり、のちに向かいの東側に「柏屋」ができ「二軒茶屋」と呼ばれるようになった。江戸時代には田楽豆腐が名物となり「祇園豆腐」と命名された。