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写真家が見つめてきた吉祥寺の街の変貌

「街の写真は何十年も経過したのちに発表すれば、見る方も衝撃を受ける。」というのは、吉祥寺「らかんスタジオ」の会長にして写真家の鈴木育男さん。ファインダー越しに見つめ続けてきた吉祥寺の街の変貌について伺った。



吉祥寺で新たな生活をスタート

1940(昭和15)年、建て替え直前の吉祥寺「らかんスタジオ」

1940(昭和15)年、建て替え直前の吉祥寺「らかんスタジオ」の様子。

米ニューヨークにて写真館を営みながら、写真家として活躍を続けていた父親が世界恐慌のあおりをうけ、帰国を余儀なくされたのは1930(昭和5)年のことだった。その翌年、阿佐ヶ谷の住宅街で小さな写真館「らかんスタジオ」を開いたと同時に鈴木育男さんは誕生。1935(昭和10)年には、吉祥寺の街に引っ越してきたという。

「当時の吉祥寺は、まだまだ“繁華街”と呼べるほどの街ではなかったものの、周辺の三鷹や阿佐ヶ谷、荻窪などに比べて活気があったと感じていました。だからこそ両親はここに居を移し、新たな生活をスタートさせようと思ったのでしょう。」と振り返る。

「1938(昭和13)年頃に、砂利道だった「平和通り」が拡幅、舗装されました。徐々に商店街も形作られ、繁華街を囲むように住宅街も広がっていきました。」


ひたすらシャッターを切っていた

戦後の復興期を迎え、鈴木さんは、「早稲田大学」卒業後に家業を継ぐことを意識して「東京写真短期大学」に進学。写真の技術を徹底的に学び「らかんスタジオ」に入社。父親の手伝いをしながら、自らの作品撮影にも没頭した。

「まだ自分の中に“何を撮りたい”という明確なテーマはなく、撮りたいものを思うがままに撮っていきました。被写体を求めて、日本各地を訪れ、その地に住む人々の暮らしや景色などを切り取っていったのです。」


変わりゆく吉祥寺の姿を記録する

吉祥寺という街を被写体として意識するようになったきっかけは、新聞社や出版社からの問い合わせだったという。

「1951(昭和26)年だったと記憶していますが、昔の吉祥寺の写真はないか、という問い合わせをいただきました。カメラを持っている人も少ない時代でしたから、街に根付いた写真館ならば何かあるだろうと思ったようです。ところが残念ながらストックがない。それでは街の写真館として恥ずかしいと思い、ぽつぽつ目につく光景を撮るようになったのです。」

1962(昭和37)年には武蔵野市が都市計画を発表。この先、吉祥寺が大きく変わっていくと予感した鈴木さんは、街の変貌ぶりを写真に収めていくべきと強く意識したという。

「とにかくこの先、街はダイナミックに変わっていく。だから“変化”をテーマに、大きく変わりそうな場所、例えば駅や商店街を定点撮影し続けていこうと思い立ちました。」

特に1970(昭和45)年から15年間は、吉祥寺の街が大きく変わっていった時期。街の記憶を写真として残していく義務があるとさえ感じていたという。

「人の記憶は曖昧だし、時には間違ったまま後世に伝わってしまう恐れもある。ところが写真で見れば、その変化は一目瞭然だし正確に伝わります。改めて写真の力の大きさを実感しました。」


世界一長寿のカメラマンを目指す

鈴木育男さん

80歳を超えてから独学でパソコンをマスターした。

鈴木さんは、これまでに何冊もの写真集を出版してきた。もちろん、吉祥寺をテーマにした作品集も上梓している。

「街の写真は何十年も経過したのちに発表すれば、見る方も衝撃を受ける。120歳になったとき、世界一の長寿カメラマンとして、ここ吉祥寺の街の変化を正確に伝える写真集を出したいと思っています。」


【お話】
鈴木育男さん
1931(昭和6)年阿佐ヶ谷生まれ。「早稲田大学」卒業後、「東京写真短期大学」(現「東京工芸大学」)で学ぶ。卒業後に父が経営する「らかんスタジオ」に入社。これまでに写真集『うつりゆく吉祥寺』『吉祥寺と周辺寸描』などを出版。
MAP __(らかんスタジオ 吉祥寺本店)



MAP

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