昭和戦前期の武蔵野町は、農地の減少や住宅地化が進んだほか、日本の戦時体制の強化に伴い、軍需工場も立地するようになった。これらの工場は、戦時中の1944(昭和19)年、東京における最初の空襲で標的にされて以降、数度の空襲による攻撃を受けた。戦後、一部の工場の跡地は、野球場・運動場や住宅地などに利用されたほか、米軍に接収されて「グリーンパーク米軍宿舎」になった。
軍需工場とその後
航空計器の製造などが行われた「横河電機」 MAP __
最先端の航空エンジン工場「中島飛行機 武蔵製作所」 MAP __(東工場) MAP __(西工場)
「中島飛行機」は陸軍からの航空エンジン工場の拡張要請に応じ、1937(昭和12)年より武蔵野町に新工場を建設、翌年「中島飛行機 武蔵野製作所」(のちの「東工場」)が開設された。1941(昭和16)年には西隣に海軍向けのエンジン組み立て工場として「中島飛行機 多摩製作所」(のちの「西工場」)も開設。1943(昭和18)年、この2つの製作所を合併し、「中島飛行機 武蔵製作所」となった。当時、国内で最新鋭の設備を誇る工場であったことから米軍の攻撃目標となり、1944(昭和19)年11月から終戦までの間に計9回の空襲を受け、工場関係者をはじめ、周辺住民も多数犠牲となった。現在、跡地は集合住宅や陸上競技場、公園、市役所、病院、学校などに利用されている。
「中島飛行機」の運動場は市民のための「武蔵野市営陸上競技場」へ MAP __
「中島飛行機 武蔵製作所」の厚生施設「中島運動場」には、戦時中は防空壕や高射機関砲が設置された。また、運動場では軍事教練や防空演習なども行われた。1944(昭和19)年の空襲では防空壕が崩落し、30名以上が亡くなったという。戦後、武蔵野市(1947(昭和22)年に市制施行)は「中島飛行機 武蔵製作所」の広大な跡地にスポーツセンターの開発を計画、「中島運動場」は武蔵野市に引き継がれ、1949(昭和24)年、「武蔵野市営陸上競技場」(現「武蔵野市立武蔵野陸上競技場」)が開設された。写真は1949(昭和24)年の開設当時の頃の撮影。
プロ野球や東京六大学野球にも使われた「東京グリーンパーク球場」
「中島飛行機 武蔵製作所」の「東工場」の跡地には、1951(昭和26)年に「東京グリーンパーク球場」が開場した。この球場では、東京六大学野球や、プロ野球の試合も開催され、「東日本一の大球場」とも呼ばれた。写真は1951(昭和26)年、東京六大学野球の試合の様子。
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しかし、「東京グリーンパーク球場」は砂埃などの施設的な問題や、都心部からの交通アクセス、他球場の開設など不利な条件が重なり、試合は1シーズン限りで行われなくなった。その後、1956(昭和31)年に解体され、「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)に売却、1958(昭和33)年に「武蔵野緑町団地」となった。団地内のカーブを描く道路が、かつて球場であったことを伝えている。写真は1958(昭和33)年の「武蔵野緑町団地」の様子。
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「中島飛行機」の工場跡地は、住宅や公園へ
「東京グリーンパーク球場」の西側には1955(昭和30)年に都営住宅が完成した。写真は1955(昭和30)年頃の空撮で、中央に都営住宅、その左に「グリーンパーク米軍宿舎」が見える。右端には「東京グリーンパーク球場」の一部が写っている。下部に斜めに延びるのは、国鉄武蔵野競技場線の「武蔵野競技場前駅」ホーム。武蔵野競技場線は、「中島飛行機」の引込線跡を利用し、「三鷹駅」と「武蔵野競技場前駅」を結んだ路線で、「東京グリーンパーク球場」への来場者のため、1951(昭和26)年に開通した。しかし、翌年から球場は使用されなくなったため、列車が運行されることもなくなり、1959(昭和34)年に廃止された。現在、武蔵野競技場線の廃線跡の大部分は「グリーンパーク遊歩道」として整備されている。
MAP __(武蔵野競技場前駅跡) MAP __(グリーンパーク遊歩道)
都営住宅は建て替えられているが、現在も同じ場所に建つ。写真右手が「東京グリーンパーク球場」があった場所となる。
MAP __(撮影地点)
「中島飛行機 武蔵製作所」の「西工場」は、戦時中の空襲により被害を受けていたが、1953(昭和28)年に米軍の住宅として改修、翌年入居が開始され「グリーンパーク米軍宿舎」と呼ばれるようになった。
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