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町、そして市へ。戦争を経て変化する吉祥寺

調布や所沢など武蔵野地方に多くの飛行場が整備されていたことなどにより、吉祥寺周辺にも「中島飛行機」に代表される軍需産業が栄え、人口はさらに増加、町はいっそう発展を遂げる。しかし、戦時下の空襲により、工場は消失。終戦後1947年(昭和22)年に市制が施行、戦後復興期には都市機能の充実が図られることとなる。


最先端の航空エンジン工場「中島飛行機 武蔵製作所」 MAP 5

1937(昭和12)年、陸軍による航空エンジン工場の拡張要請に応じ、「中島飛行機 武蔵製作所」の建設が始まった。当時は最新鋭の設備を誇っていたこの工場だが、1945(昭和20)年4月7日、米軍機の爆撃により焼失している。跡地は様々な議論を経て、現在、集合住宅や陸上競技場、公園などとして利用されており、吉祥寺におけるまちづくりの象徴的な場所となっている。

「中島飛行機」の運動場は市民の「武蔵野陸上競技場」へ MAP 6

戦後、「中島飛行機」の工場敷地内にあった陸上競技場やプールなどを活用したスポーツ施設の開発が計画された。「中島飛行機」の陸上競技場は、「武蔵野陸上競技場」として整備されたほか、工場跡地には市営サッカー場、市営野球場などが造られていった。写真は1958(昭和33)年の「武蔵野陸上競技場」の様子。

1989(平成元)年、隣接地に総合体育館・温水プールが完成。「武蔵野陸上競技場」もリニューアルされ、総合体育館と一体のスポーツ施設になった。

プロ野球や東京六大学野球にも使われた「東京グリーンパーク球場」

東工場の跡地もスポーツ施設として開発が行われ、1951(昭和26)年に「東京グリーンパーク球場」がオープンする。この球場では六大学野球や、プロ野球の試合も開催され、「東日本一の大球場」とも呼ばれた。写真は1951(昭和26)年、六大学野球の試合の様子。

球場の面影を残す「武蔵野緑町団地」 MAP 7

砂埃や交通アクセスの問題により、試合が行われなくなった「東京グリーンパーク球場」は、都営アパートの用地として、1956(昭和31)年に日本住宅公団(現・UR都市機構)に買収され、取り壊されることとなる。その後、1958(昭和33)年に「武蔵野緑町団地」が誕生。団地内のカーブを描く道路に、かつて球場であった名残をとどめている。写真は1958(昭和33)年の様子。

「武蔵野緑町団地」は1996(平成8)年から2003(平成15)年にかけてリニューアルされ、「武蔵野緑町パークタウン」として生まれ変わった。


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