五代将軍の徳川綱吉は、現在の神田錦町・一ツ橋一帯に大寺院「筑波山護持院元禄寺」を建立したが、1717(享保2)年の大火で焼失、跡地は火除地として広大な空地「護持院ヶ原」となった。
幕末期のペリー来航以後、幕府は洋学を研究する必要に迫られ研究機関を設置、数度の移転・改称を経て1862(文久2)年、「護持院ヶ原」に「洋書調所(しらべしょ)」が設けられ、翌年「開成所」、1869(明治2)年に「大学南校」となった。さらに1873(明治6)年に「開成学校」、翌年「東京開成学校」と改められたのち、1877(明治10)年、「東京大学」が創立された。法理文3学部は1885(明治18)年に本郷に移転するまで、ここに校舎があった。
「東京外国語大学」の前身、「東京外国語学校(旧)」は1873(明治6)年に「開成学校」の語学課程などを母体として、その敷地内の一ツ橋に建学された。一方、「一橋大学」の前身である私塾の「商法講習所」は1875(明治8)年、現在の中央区銀座に開設、1884(明治17)年に「東京商業学校(旧)」へ改称していた。両校は、1885(明治18)年に合併し「東京商業学校(新)」(校地は一ツ橋)、1887(明治20)年に「高等商業学校」となった。その後、語学課程は1897(明治30)年に「附属外国語学校」となり、1899(明治32)年に「東京外国語学校(新)」に改称し独立。校地は錦町三丁目に設けられたが、その後、大火・震災での被災などにより数度の移転を経て、1940(昭和15)年に現・北区へ移転。1944(昭和19)年に「東京外事専門学校」と改称、1949(昭和24)年に「東京外国語大学」となった。「高等商業学校」は1902(明治35)年に「東京高等商業学校」、1920(大正9)年に「東京商科大学」となった(その後はこちらを参照)。
明治10年代には近代法の制定に伴い法曹(法律家)の養成が求められるようになり、のちに「五大法律学校」と呼ばれる法律学校も相次いで設立された。「五大法律学校」のうち、神田区内には「東京法学社」(1880(明治13)年設立、翌年「東京法学校」へ改称、現「法政大学」)、「専修学校」(1880(明治13)年設立、現「専修大学」)、「英吉利(イギリス)法律学校」(1885(明治18)年設立、現「中央大学」)が誕生、「明治法律学校」(現「明治大学」)も1886(明治19)年に駿河台南甲賀町へ移転してきた。このほかにも、1887(明治20)年に「共立女子職業学校」(現「共立女子大学」)が一ツ橋へ移転(開校は前年)、1896(明治29)年に「日本法律学校」(現「日本大学」)が三崎町へ移転、1907(明治40)年「電機学校」(現「東京電機大学」)が開校するなど、神田区内には、明治期以降多くの学校が立地するようになり、日本有数の学生街が誕生した。