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『本の街』神保町の発展

神保町は、明治期以降、多くの学校が周辺にできたことから、学生を対象とした商店や飲食店が多数立地するようになった。特に明治10年代、法律学校も相次いで誕生したことから、書店・古書店も続々と開店、「神田古書店街」へ発展した。また、「有斐閣」「三省堂」「冨山房」「岩波書店」「主婦の友社」「小学館」「集英社」など、多くの出版社も神保町周辺に建ち並んだ。


明治期に始まる「神田古書店街」

明治10年代に、神保町周辺に相次いで誕生した法律学校の学生に向けて、法律書の書店・古書店が続々と開店したことが「神田古書店街」の始まりといわれる。一帯は「関東大震災」で被災したのち、写真のような長屋形式の店舗も作られた。写真は震災復興後、1931(昭和6)年頃の様子。【画像は1931(昭和6)年頃】

写真は現在の同地点付近の様子。現在も同じ屋号で営業を続ける書店・古書店も見られる。また、長屋時代からの建物で営業を続ける店舗もわずかながら残っている。
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写真は現在の神田神保町二丁目付近の様子。「高山本店」は1875(明治8)年の創業の神保町で一番の老舗の書店で、1978(昭和53)年、隣接していた「北沢書店」の2店共同で、9階建ての「神田古書センター」(写真中央)を開業、現在「高山本店」は1階に店舗を構えている。近年、神田界隈にはカレー専門店が多く立ち並ぶようになり、「カレーの街」と呼ばれるようにまでなったが、そのきっかけの一つは「神田古書センター」開業時に「高山本店」の店主が誘致し、現在も同ビルで営業を続ける「欧風カレー ボンディ」の存在があるといわれる。
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廃墟と化した神保町

写真は「太平洋戦争」における空襲で廃墟と化した神保町で、詳細な撮影場所は不明。「靖国通り」沿いの古書店街は空爆による被災を免れているが、これは米軍が貴重な古書を守るため、空爆を避けたという説もある。【画像は1945(昭和20)年頃】

「神田すずらん通り」の賑わい

「神田すずらん通り」は、江戸期には「神保小路」、明治期には「神保町通り」と呼ばれていた。1913(大正2)年の「神田大火」で神保町界隈は全焼となった。大火までは「神保町通り」を中心に発展しており、古書店も多く出店していたが、大火ののち、現在の「靖国通り」の南側が拡幅され、この狭くなった土地に古書店が移転、または新規開店するようになったため、「靖国通り」の南側は、現在に至るまで古書店街の中心となっている。「神保町通り」には、1925(大正14)年頃、東京で初めて、すずらん型の街路灯が設置されており、この頃から「すずらん通り」と呼ばれるようになったと思われる。

写真は震災復興後の昭和初期、すずらん型の街路灯が設置された後の「神保町通り」。右に見える「トラヤ」の看板の店舗は1917(大正6)年創業の「トラヤ帽子店」で、1930(昭和5)年に銀座に出店、現在も銀座二丁目で「銀座トラヤ帽子店」として営業を続けている。【画像は昭和初期】

写真は現在の同地点付近の様子。 MAP __

写真は震災復興後、1931(昭和6)年頃撮影の「神保町通り」。すずらん型の街路灯はすでに設置されている。中央奥の大きい建物が「三省堂書店」。もとは1881(明治14)年創業の古書店で、翌々年に新刊の書店となり、1884(明治17)年からは辞書の編纂など出版業務も開始している。【画像は1931(昭和6)年頃】

写真は現在の同地点付近の様子。「三省堂書店 神保町本店」は建替えのため2022(令和4)年に一旦閉店しており、2025年頃の竣工を予定している。
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写真は1957(昭和32)年頃撮影の「神田すずらん通り」で、中央奥に見える高いビルは出版社の「冨山房(ふざんぼう)」。1932(昭和7)年完成の震災復興建築であったが、現在は建て替えられている。商店街入口から左側数店目には「揚子江」の文字も見える。現在もここで営業する「揚子江菜館」は1906(明治39)年に西神田で創業した中華料理の老舗で、震災復興期にここへ移転、現在に至る。【画像は1957(昭和32)年頃】

写真は現在の「神田すずらん通り」西側の入口。 MAP __


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