震災では神田区内は大半が焼き尽くされ、被災率は90%にも及んだといわれる。写真は「万世橋駅」前の様子。【画像は1923(大正12)年】
1923(大正12)年の「関東大震災」(以下震災)では、神田区内は大半が焼き尽くされ、被災率は90%にも及んだといわれる。震災復興では橋、道路、鉄道などインフラストラクチャーの整備が進められ、現在も使用されているものも多い。また、震災復興期に造られた耐火建築は、「太平洋戦争」での空襲による延焼を免れ、現存しているものもある。
1923(大正12)年の「関東大震災」(以下震災)では、神田区内は大半が焼き尽くされ、被災率は90%にも及んだといわれる。震災復興では橋、道路、鉄道などインフラストラクチャーの整備が進められ、現在も使用されているものも多い。また、震災復興期に造られた耐火建築は、「太平洋戦争」での空襲による延焼を免れ、現存しているものもある。
震災では神田区内は大半が焼き尽くされ、被災率は90%にも及んだといわれる。写真は「万世橋駅」前の様子。【画像は1923(大正12)年】
「聖(ひじり)橋」は、1927(昭和2)年に架橋された震災復興橋の一つ。皇居から本郷に至る震災復興道路が「神田川」を渡る地点に架けられた、長さ92m、幅22mの鋼及びコンクリ-ト橋で、立体的な橋脚美から東京の新名所となった。橋名は公募により名付けられており、孔子を祀る「湯島聖堂」方面と「ニコライ堂」方面を結んでいる。写真は昭和初期の撮影。 MAP __(聖橋) MAP __(ニコライ堂)【画像は昭和初期】
写真は震災復興後の昭和戦前期、現在の「神田郵便局」付近から駿河台方面を望んでおり、左奥に「ニコライ堂」が見える。中央のビルは当時の出版取次の大手「大東館」。1941(昭和16)年に、「大東館」を含む全国の取次240社を強制的に統合した国策会社「日本出版配給」の本社となり、戦時中は言論統制に加担することになる。「大東館」の右に見える建物は明治期から有名だった「江木写真館」。その奥に「須田町食堂」「聚楽」の本社の建物がある。「大東館」の左には映画館「シネマパレス」が見える。ここでは、昭和初期に須田貞明(黒澤明の実兄)が弁士を務めていた。【画像は昭和戦前期】
「今川小路共同建築」は、震災復興で建設され、1927(昭和2)年に竣工した鉄筋コンクリート造の店舗併用住宅。各所有者の狭い敷地で効率的・経済的に耐火建築を実現するため、8人の共同建築主による長屋形式のビルとして設計された。写真は昭和初期の様子。のちに「九段下ビル」と呼ばれるようになった。【画像は1930(昭和5)年頃】
「主婦の友社」は1916(大正5)年創業の出版社で、1925(大正14)年、駿河台にウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した本社ビルが竣工となった。このビルと、三代目の「明治大学記念館」は長年、駿河台の街のシンボルであった。写真は1959(昭和34)年頃の撮影。【 画像は1959(昭和34)年頃】
「共立女子学園」は、1886(明治19)年に設立された「共立女子職業学校」を前身とする学校で、翌年、神田一ツ橋へ移転している。学園の象徴「共立講堂」は1938(昭和13)年に落成し、学園の行事に使用されたほか、一般にも貸し出され、芸術・文化・学術の発展にも貢献した。戦後の1956(昭和31)年に火災に遭い内部を全焼、翌年に復興工事が落成した。写真は1957(昭和32)年頃の様子。【画像は1957(昭和32)年頃】