明治中期以降、東京では電気の工事が盛んになり、さらに大正末期以降はラジオの普及に伴いラジオ部品の需要も急増、電子・電気部品の小売・卸売商(以下電器商)が急成長したが、当時は特に秋葉原が中心というわけではなかった。1933(昭和8)年に卸売商の「廣瀬商会」(現「廣瀬無線電機」)、「山際電気商会」(現「ヤマギワ」)が秋葉原に進出し急成長(共に現在は店舗事業からは撤退)、秋葉原が電気街となる先駆けとなった。
「太平洋戦争」に突入すると、電子・電気部品は軍需利用などのため入手困難となったが、戦後になると電器商は続々と営業を再開、さらに「石丸電気」(現在は「エディオン」に統合)、「ミナミ無線電機」(現在は廃業)など新規の開店や進出も続いた。秋葉原に電器商が多数集結してきた背景には、「廣瀬商会」が地方からの仕入れ客も多い総合問屋で賑わっていたこと、秋葉原の安さが宣伝されていたこと、「秋葉原駅」の旅客駅の開業や市電・都電による交通のアクセスが良かったことなどがあるといわれる。
一方、戦後、東京の街の大通り沿いなどに露店が多く立ち並んだが、中でも小川町から神田須田町界隈の露店では、近隣にあった「電機工業専門学校」(現「東京電機大学」)の学生がアルバイトでラジオの組み立て・販売を行って人気になったことから、真空管がよく売れるようになり、1950(昭和25)年頃には約120軒中、約50軒の露店が電器商となっていたという。しかし、「GHQ」の指示により、1950(昭和25)年から翌年にかけて東京の街から露店が整理されることになり、神田の電器商の露店の移転先として、「秋葉原駅」周辺に共同店舗「東京ラジオデパート」「秋葉原ラジオセンター」「ラジオガァデン」(いずれも現存)などが建設された。このような歴史から、「秋葉原電気街」には露店から始まる小規模なショップも多い。
昭和30年代は日本が急激に豊かになっていく時代で、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ、電化ブームが到来。昭和40年代にはカラーテレビ、昭和50年代にはビデオデッキ、マイコンなどが電器店の主力となり、この頃から日本の家電製品が世界で人気となり、秋葉原へ外国人の買い物客が訪れるようになった。平成期以降はパソコンをはじめとするマルチメディアの街としても発展、近年はアニメ・ゲームなどのサブカルチャーの発信地として世界的に知られるようになった。