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神田の専門店街の歴史

岩本町一帯は繊維問屋街となっているが、その発祥は江戸期の古着商。神保町界隈には戦前から学生を相手とする書店・古書店のほか、古道具店、スポーツ用品店、楽器店なども立地するようになり、専門店街の「神田スポーツ店街」「お茶の水楽器店街」へ発展した。「秋葉原電気街」は戦前から電器商が進出、戦後は神田に多かった電器商の露店が移転し誕生した共同店舗も加わり、世界有数の電気街へ発展、現在はサブカルチャーの発信地としても世界的に知られている。


江戸期の古着屋町を前身とする「岩本町繊維問屋街」

江戸期より、「神田川」下流、現在の「駿河台」の東端付近から「浅草橋」にかけて築かれていた南岸の土手は「柳原土手」と呼ばれていた。江戸中期頃から土手沿いに古着を扱う露店が多く立ち並び、古着の町となった。明治期になると古着商を営むものがさらに増加、1881(明治14)年には、「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地として発展したが、1923(大正12)年の「関東大震災」で甚大な被害を受けた。写真は震災後、1928(昭和3)年に建設された当時の「東京衣類市場」。地階は飲食店、4階には「和泉橋ダンスホール」もあり賑わっていたという。この頃から洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から廉価な既製の洋服に変化したため、既製服の問屋も増えていった。【画像は1928(昭和3)年】

「東京衣類市場」のビルがあった場所は、1997(平成9)年より「山崎製パン」の本社となっている。
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戦後も繊維問屋街は発展した。写真は1960(昭和35)年頃の「岩本町繊維問屋街」の様子。中央の大きいビルは1950(昭和25)年創業の「上野衣料」で、のちに「ポロクラブ」ブランドで有名になる。【画像は1960(昭和35)年頃】

写真は現在の様子。最盛期よりは減っているものの、現在も衣類産業の問屋・会社が見られる。
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「神田スポーツ店街」の歴史

神田周辺では、戦前期よりスポーツ用品店が営業していた。大阪で創業した「美津濃(ミズノ)」は、1912(明治45)年に東京・神田へ進出しており、「南靴店」(1896(明治29)年創業、のちの「ミナミスポーツ」)も昭和初期よりスポーツ用品を扱うようになった。写真は1930(昭和5)年頃の撮影で、中央付近の建物に「美津濃」、左端付近の建物に「ミナミ」の看板がある。【画像は1930(昭和5)年頃】

昭和30年代頃から大型のスポーツ用品店が出店、その後アイススケートやスキーブームなどもあり、世界でも類を見ないといわれるスポーツ店街へ発展した。現在はブーム時ほどの勢いはないが、多くのスポーツ用品店があり賑わいを見せている。
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「秋葉原電気街」の形成

明治中期以降、東京では電気の工事が盛んになり、さらに大正末期以降はラジオの普及に伴いラジオ部品の需要も急増、電子・電気部品の小売・卸売商(以下電器商)が急成長したが、当時は特に秋葉原が中心というわけではなかった。1933(昭和8)年に卸売商の「廣瀬商会」(現「廣瀬無線電機」)、「山際電気商会」(現「ヤマギワ」)が秋葉原に進出し急成長(共に現在は店舗事業からは撤退)、秋葉原が電気街となる先駆けとなった。

「太平洋戦争」に突入すると、電子・電気部品は軍需利用などのため入手困難となったが、戦後になると電器商は続々と営業を再開、さらに「石丸電気」(現在は「エディオン」に統合)、「ミナミ無線電機」(現在は廃業)など新規の開店や進出も続いた。秋葉原に電器商が多数集結してきた背景には、「廣瀬商会」が地方からの仕入れ客も多い総合問屋で賑わっていたこと、秋葉原の安さが宣伝されていたこと、「秋葉原駅」の旅客駅の開業や市電・都電による交通のアクセスが良かったことなどがあるといわれる。

一方、戦後、東京の街の大通り沿いなどに露店が多く立ち並んだが、中でも小川町から神田須田町界隈の露店では、近隣にあった「電機工業専門学校」(現「東京電機大学」)の学生がアルバイトでラジオの組み立て・販売を行って人気になったことから、真空管がよく売れるようになり、1950(昭和25)年頃には約120軒中、約50軒の露店が電器商となっていたという。しかし、「GHQ」の指示により、1950(昭和25)年から翌年にかけて東京の街から露店が整理されることになり、神田の電器商の露店の移転先として、「秋葉原駅」周辺に共同店舗「東京ラジオデパート」「秋葉原ラジオセンター」「ラジオガァデン」(いずれも現存)などが建設された。このような歴史から、「秋葉原電気街」には露店から始まる小規模なショップも多い。

昭和30年代は日本が急激に豊かになっていく時代で、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ、電化ブームが到来。昭和40年代にはカラーテレビ、昭和50年代にはビデオデッキ、マイコンなどが電器店の主力となり、この頃から日本の家電製品が世界で人気となり、秋葉原へ外国人の買い物客が訪れるようになった。平成期以降はパソコンをはじめとするマルチメディアの街としても発展、近年はアニメ・ゲームなどのサブカルチャーの発信地として世界的に知られるようになった。


「秋葉原電気街」の店舗

写真は建設まもない1952(昭和27)年頃の「ラジオガァデン」。【画像は1952(昭和27)年頃】

写真は現在の様子。電器店1店が営業しているほか、自動販売機コーナーも設けられている。
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「秋葉原ラジオセンター」は1949(昭和24)年、中央・総武緩行線のガード下に開業した。写真は1952(昭和27)年頃の様子。【画像は1952(昭和27)年頃】

写真は現在の「秋葉原ラジオセンター」。現在も電子部品を扱う店舗が多い。
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「秋葉原ラジオ会館」は1950(昭和25)年に木造2階建ての建物で開業した。写真は1960(昭和35)年頃の「秋葉原ラジオ会館」の様子。【画像は1960(昭和35)年頃】

1972(昭和47)年、8階建ての「秋葉原ラジオ会館」が完成、その後、さらに建替えられ、2014(平成26)年に現在のビルとなった。
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写真は1960(昭和35)年頃の「秋葉原電気街」の様子。左手のタワーのような特徴的な広告塔のあるビルが「ヤマギワ」。【画像は1960(昭和35)年頃】

写真は現在の様子。「ヤマギワ」のビルがあった場所は、現在は「ビックカメラ」となっている。
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