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江戸期の神田


「江戸総鎮守」となった「神田明神」 MAP __

「神田明神」は730(天平2)年、出雲出身の真神田臣(まかんだおみ)により現在の千代田区大手町付近に創建された社がはじまりといわれる。940(天慶3)年、「天慶の乱」で平将門が敗れ、首が京都で晒された時、東国へ飛び去ったという伝説があり、飛来したとされる地に塚(現・大手町にある「将門塚(まさかどづか、しょうもんづか)」)が造られた。この塚の周辺で天変地異が頻発すると将門の祟りとされ、それを鎮めるため1309(延慶2)年に社の祭神の一つ「平将門命(みこと)」として祀られ「神田明神」と呼ばれるようになり、その後、太田道灌、北条氏綱、徳川家康などの戦国武将からの崇敬も受けた。江戸幕府が開かれると、1616(元和2)年に「江戸城」の表鬼門守護にあたる現在地に遷座され、社殿は幕府により造営された。以後、江戸時代を通じ「江戸総鎮守」として、幕府から江戸庶民にいたるまでの篤い崇敬を受け、明治期に入ると、社名は「神田神社」に改称された。写真は明治後期~大正初期の様子。【画像は明治後期~大正初期】

1923(大正12)年の「関東大震災」により江戸後期からの社殿を焼失、1934(昭和9)年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの社殿が再建された。この社殿は、「太平洋戦争」の空襲で周辺が焼け野原となる中、わずかな損傷だけで残り、戦後は復興のシンボルにもなったという。写真は現在の社殿の様子。正式名は「神田神社」であるが、一般には「神田明神」と呼ばれている。写真は1970(昭和50)年に再建された「隨神門」。

江戸を代表する祭りとして発展した「神田祭」

1600(慶長5)年、「関ヶ原の戦い」の際、「神田明神」は家康の戦勝の祈祷を行ない、9月15日の「神田祭」の日、家康は勝利し天下統一を果たした。以降、「神田明神」は家康の崇敬するところとなり、「神田祭」は盛大に執り行われるようになった。「神田祭」と「日枝神社」の「山王祭」は、江戸期を通じて、幕府が祭礼費用の一部を負担し、また、祭礼行列が「江戸城」内に入り、しばしば将軍の上覧もあったことから、「天下祭」「御用祭」とも呼ばれた。【画像は大正末期~昭和初期】

現在、「神田祭」は隔年で5月中旬に行われ、「江戸三大祭」の一つにも数えられている。明治期までは山車を運行する祭りであったが、電線や路面電車などで運行に支障が出るようになり、さらに「関東大震災」や戦災で山車が焼失したこともあり、現在は神輿が主流となっている。

神田の青物市場

神田の青物市場は、江戸初期の1612(慶長17)年、幕府が江戸の食糧需要に対応するため、伊勢の青物商人を呼びよせ、多町界隈で開かれた野菜市に始まったといわれる。1657(明暦3)年の「明暦の大火」ののち、分散していた青物市場が集められ幕府の御用市場(通称「多町市場」)へ発展。明治期以降、さらに発展した。写真は明治後期の青物市場。【画像は1911(明治44)年頃】

現在は「神田須田町交差点」の近くに「神田青果市場発祥之地」の碑がある。 MAP __

神田の青物市場は、「関東大震災」後、復興事業の一環で1928(昭和3)年に貨物駅のある秋葉原へ移転、「神田青果市場」(写真)となった。【画像は昭和戦前期】

「神田青果市場」は1990(平成2)年に大田区に移転し、跡地は再開発が行われ「秋葉原UDX」となっている。 MAP __


神田の明治期までの歴史

神田は、現在の千代田区の北東部にあたる地区(以下、神田地区と表記)。1878(明治11)年に神田区が誕生、1947(昭和22)年に麹町区と合併し千代田区となった。神田の地名の由来は諸説あり、「神田明神」には神社を創建した真神田氏の名から採られたと伝わるほか、神田を「みとしろ」と読ませ、「伊勢神宮」に奉納する神の田んぼから名づけられたという説(美土代(みとしろ)町は、この説に因み明治期に命名された町名)などがある。

江戸期は、神田地区の東側は概ね町人地、西側は概ね武家地であった。東側は江戸期から商工業が盛んな地域。江戸開府の頃、徳川家康は「江戸城」と城下町建設などのため、様々な職人を江戸に移住させており、同業の職人が集まる職人町も形成された。職人町の例としては、鍛冶師・鋳物師などによる鍛冶町(現・鍛冶町二丁目、内神田三丁目の一部)、藍染職による紺屋町(現・神田紺屋町など)、左官職による白壁町(現・鍛冶町二丁目の一部)などが挙げられる。また、「神田川」には河岸が設けられ、物流の拠点として発展したほか、多町界隈には青物市場も設けられた。

神田地区の西側には、大名の上屋敷のほか、旗本、御家人などの屋敷も多く置かれた。駿河台の地名は江戸初期、徳川家康の没後、家臣の旗本「駿河衆」が駿府(現・静岡市)から「富士山」も望めるこの高台の地へ移住したことに由来、神保町の地名は江戸前期に旗本の神保長治が屋敷を構えその前の道が「神保小路」と呼ばれたことに由来するなど、地名にも武家地であった歴史を残す。「江戸城」のすぐ北側、現在の神田錦町には江戸前期に「護持院」という寺院が建立されたが、江戸中期に焼失、跡地は広大な火除地「護持院ヶ原」となった。将軍家の猟場として使用されたほか、江戸の市民の憩いの場ともなった。

「護持院ヶ原」や、駿河台の武家屋敷の敷地には、明治になると多くの学校が開設され、文教の街となり、周辺は学生の街として発展した。

神田地区の東側は、青物や古着の市場があるなど江戸期からの商業地であったが、明治期になるとさらに賑わうようになり、1886(明治19)年には現在の外神田に、のちに「伊勢丹」へ発展する「伊勢屋丹治呉服店」も創業している。鉄道馬車・路面電車が開通すると、「須田町交差点」付近は交通の要衝となり、東京有数の繁華街として発展。現在も周辺には「かんだやぶそば」「ぼたん」など、明治期創業の老舗飲食店が多く残っている。



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※本ページでは1878(明治11)年から1947(昭和22)年まであった、神田区の区域を神田または神田地区としている。



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