江戸初期に麹町隼町から永田町に遷座してきた「山王権現」は、「江戸城」の鎮守でもあり、「山王さん」の呼び名で親しまれていた。小高い丘の上にあり、天下奉平、万民和楽を祈願する多くの人々が、麓から続く階段を上って参拝に訪れた。図は歌川広重が幕末期の1861(文久元)年頃に描いた『東都三十六景 山王権現雪中』で、階段は表参道となる「山王男坂」。
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現在、「立法」「行政」「司法」を担う機関が集まり、日本の国家の中枢エリアといえる霞が関・永田町。江戸期には「江戸城」の西側に位置し、有力大名などの武家屋敷が並んでいた。「明治維新」後は中央官庁や外国公館も設置されたほか、宮家や国政の有力者などの邸宅も立地するようになった。また、教育や文化の中心地としても発展した。明治中期以降は、「官庁集中計画」が進められ、震災・戦災の復興も契機となり、現在の「霞が関官庁街」が形成された。