図は昭和戦前期の「日本管楽器」の広告。「工場…板橋区志村小豆澤町」と表示されている。
【図は1941(昭和16)年】
「日本管楽器(ニッカン)」は明治中期、浅草で創業した「江川楽器製作所」を前身とする。当初は輸入管楽器の修理を行っていたが、その後、国産管楽器の製造を開始。1918(大正7)年に「合資会社日本管楽器製作所」へ改組、さらに1937(昭和12)年、戦時体制下での軍楽ラッパ増産など業務拡大のため「日本管楽器株式会社」となった。このとき、「日本楽器製造(現・ヤマハ)」は出資して経営に参画、「日本楽器製造」の社長・川上嘉市氏が監査役となった。翌1938(昭和13)年、板橋区志村小豆澤町(現・小豆沢一丁目)に工場(のちの「板橋工場」)が完成した。
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昭和初期になると、工場・会社でも多くの吹奏楽団が結成されるようになり、軍の勢力の拡大や戦争が進むにつれ陸軍・海軍の軍楽隊が活躍したほか、慰問、軍への入営や出征の見送り、また英霊を迎えるなど、各地域や団体の楽隊の活動も増えた。また海外製品の輸入が制限されたことで国産管楽器の需要は高まったが、戦争末期の1944(昭和19)年には航空機部品の生産を行うようになり、社名を「日管航器」へ改称した。
1963(昭和38)年撮影の空中写真に「日本管楽器 板橋工場」の敷地を示したもの。敷地はL字型であった。
【画像は1963(昭和38)年】
「日管航器」は戦後すぐに「日本管楽器」へ会社名を戻し、その後は「日本楽器製造(現・ヤマハ)」のグループ会社として、この地で管楽器の製造を続けた。1955(昭和30)年には樹脂製の「スペリオパイプ」を発売、学校教育用の楽器としてのリコーダーの普及と改良に大きく貢献した。また、戦前まで軍楽隊などが中心だった吹奏楽は、部活動など学校教育の中で再び盛んに。戦後の「日本管楽器」は日本の音楽教育や音楽文化を支える企業として成長していった。
生産が拡大する中、1963(昭和38)年、管楽器の生産部門を埼玉県入間郡大井村(現・ふじみ野市)に新設された「埼玉工場」へ移転、「板橋工場」では打楽器・教育楽器の生産が続けられた。その後、「日本管楽器」は親会社となっていた「YAMAHA」ブランドで管楽器を製造するようになったのち、1970(昭和45)年に「日本楽器製造(現・ヤマハ)」に吸収合併となり、明治期から培われてきた「ニッカン」の技術は「ヤマハ」の管楽器部門へ引き継がれた。
「日本管楽器 板橋工場」の跡地に建設された「都営小豆沢一丁目第二アパート」。
「日本管楽器 板橋工場」の跡地には、1974(昭和49)年に「都営小豆沢一丁目第二アパート」が建設され現在に至っている。「日本管楽器 埼玉工場」を前身としていた「ヤマハ 埼玉工場」は、2013(平成25)年までに静岡県磐田市の「ヤマハ 豊岡工場」に統合され廃止となっている。
「ニッカン」出身の技術者が興した管楽器メーカーや管楽器店、管楽器修理店も多く、日本の音楽界に大きな影響を与えている。小豆沢の旧「日本管楽器 板橋工場」の近くに会社・工場を構える「柳澤管楽器」もその一つ。創業期の「江川楽器製作所」で工場長を務めた職人・柳澤徳太郎氏の子・孝信氏は、戦後、出征から「日本管楽器」へ戻ったのち独立。1951(昭和26)年に小豆沢でサックスの試作を開始、その後「柳澤管楽器(ヤナギサワ)」を設立し、現在は「ヤマハ」、フランスの「H.セルマー」とともに『世界3大サックスメーカー』の一つと呼ばれるまでに成長している。
MAP __(柳澤管楽器)