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『軍都』としての発展とその後

現在の北区域(特に旧王子区域)は、1872(明治5)年に「赤羽火薬庫」が設置されたことに始まり、「東京鎮台武器庫」「赤羽工兵隊」「陸軍被服倉庫」など、陸軍の施設が次々と転入または新設・拡大され、一帯は『軍都』と呼ばれるまでに発展。このため、「太平洋戦争」では、空襲により大きな被害を受けることとなった。軍関連の広大な土地(終戦時には現・北区域の面積のうち1割ほどを占めていたという)と建物は、終戦後「GHQ」や「米軍」による接収を受けたほか、民間の施設や住宅にも転用された。接収が解除されると、公共的な施設の用地となった所も多く、現在も陸軍時代の建物を保存・利用している公共施設もある。


「東京陸軍兵器補給廠」跡地は「味の素ナショナルトレーニングセンター」などへ MAP __

1886(明治19)年、稲付村に陸軍の「東京鎮台武器庫」が設けられた。兵器や燃料を保管する場所で、1906(明治39)年に「板橋兵器庫」、1928(昭和3)年に「東京陸軍兵器支廠」へ改称された。その後、改称・改組を経て、終戦時には「東京陸軍兵器補給廠」となっていた。終戦後は米軍に接収され、「TOD(東京兵器補給廠)第1地区」として使用、1958(昭和33)年に返還された。写真は1962(昭和37)年頃の旧「TOD第1地区」。【画像は1962(昭和37)年】

返還後、跡地は検討の上、公共施設・学校などに利用されることに。また、この一帯は、1965(昭和40)年に住居表示が行われ、新町名は「西が丘」となった。現在は「味の素フィールド西が丘」(写真左)、「味の素ナショナルトレーニングセンター」(写真奥)、「国立スポーツ科学センター」(写真奥左)などのスポーツ関連施設のほか、学校、公園、集合住宅などが立地している。「味の素ナショナルトレーニングセンター」ではオリンピック強化指定選手など、国内のトップアスリートのトレーニングが行われている。

「赤羽火薬庫」跡地は「都営桐ケ丘団地」の一部に

1872(明治5)年、赤羽根村に「赤羽火薬庫」が「兵部省 武庫司(ひょうぶしょう ぶこし)」により設置された。現在の北区域では最も古い軍施設であった。その後、陸軍の管轄となり、「東京陸軍兵器支廠」などの所属となった。「赤羽火薬庫」内の建物は、誤爆時の誘爆防止のため土手で囲まれ、土手にはトンネルも設けられていた。終戦時には約50棟の建物があり、「GHQ」に接収されたのち、1946(昭和21)年に返還。同年より戦災者や引揚者の住宅として使用されるようになり、約500世帯・2,000人が暮らす「赤羽郷(あかばねごう)」となった。写真は昭和20年代の「赤羽郷」。【画像は昭和20年代】

1952(昭和27)年、東京都は「赤羽工兵隊」の作業所、射撃場の広大な跡地に、新たに団地を計画、1955(昭和30)年に着工となり、同年内に「都営桐ケ丘団地」の最初の3棟が完成した。「都営桐ケ丘団地」には完成した棟から、順次新しい住民の入居が始まった。1957(昭和32)年度には「赤羽郷」のあった地区も計画に追加、「赤羽郷」の住民には優先的に団地の住居が割り当てられ、1976(昭和51)年度に約5,000戸からなる大団地が完成した。写真は昭和30年代の撮影で、「赤羽郷」のそばまで「都営桐ケ丘団地」の建物の建設が進んでいる。
MAP __【画像は昭和30年代】

「赤羽郷」の跡地は、「都営桐ケ丘団地」のほか、「桐ケ丘中央公園」(写真)などになった。「桐ケ丘」の団地名は、1952(昭和27)年、「赤羽郷」の東側に開校していた「北区立桐ケ丘小学校」(現「北区立桐ケ丘郷小学校」)の小学校名から採られており、校名の由来は「赤羽火薬庫」の敷地内に桐の木が多かったことによる。1964(昭和39)年の住所表示実施により「桐ケ丘」は町名ともなった。

写真は「都営桐ケ丘団地」のうちの、旧「赤羽郷」付近。「赤羽郷」の名前はバス停留所名に残る。
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「東京第一陸軍造兵廠」は「北区立中央公園」などへ

1905(明治38)年、小石川にあった「東京砲兵工廠」の拡張に伴い、拳銃や弾薬などを製造する「銃包部門」が十条へ移転し「東京砲兵工廠 銃包製造所」となった。十条が選ばれた理由は、「板橋火薬製造所」が近く、交通や水運の便が良かったことなどによる。1923(大正12)年に「陸軍造兵廠火工廠 十条兵器製造所」、1936(昭和11)年「陸軍造兵廠東京工廠 銃砲製造所」への改称・改組を経て、1940(昭和15)年に「東京第一陸軍造兵廠(以下「一造」) 第一製造所」となった。写真は1930(昭和5)年に「陸軍造兵廠火工廠」の本部として建設された建物で、のちに「一造」の本部となった。当時の外壁は茶色のスクラッチタイルであった。
MAP __【画像は昭和戦前期】

終戦後、一帯は米軍に接収され、「一造」の「第一製造所」は「TOD第4地区」(のちに「キャンプ王子」とも呼ばれた)となり、その後一部が返還され、1959(昭和34)年に「陸上自衛隊十条駐屯地」が開設された。かつての本部の建物には、米軍の「極東地図局」などが置かれ、「ベトナム戦争」時には野戦病院として使用された。1971(昭和46)年、全面返還され、その後「北区立中央公園」や学校などが建設された。本部だった建物は「中央公園文化センター」(写真)として利用されているが、米軍が接収して以降は、外装のスクラッチタイルは白く塗られている。

赤煉瓦造りの弾丸工場であった「弾丸鉛身場」(以下「赤レンガ棟」)は、1919(大正8)年に建設された。戦後、米軍に接収されたのち、1958(昭和33)年に返還された。写真は2006(平成18)年頃、「北区立中央図書館」として改修・増築される前の「赤レンガ棟」。
MAP __【画像は2006(平成18)年頃】

返還後の「赤レンガ棟」は自衛隊の倉庫となったのち、民間企業に貸し出され、タイヤ再生施設として1989(平成元)年まで利用された。その後、北区へ移管、改修・増築が行われ、2008(平成20)年に「北区立中央図書館」となった。

「陸軍被服本廠」は「赤羽台団地」へ

1891(明治24)年、「赤羽停車場」の西側の高台に「陸軍被服廠」(1908(明治41)年より「陸軍被服本廠」)の被服倉庫が置かれた。1919(大正8)年、この地の倉庫を統合する形で「陸軍被服本廠」が本所区から移転。ここでは、陸軍の軍服などの製造が行われた。
MAP __【画像は1920(大正9)年】

戦後は米軍が接収し、戦車修理工場として利用、1960(昭和35)年に返還された。跡地には団地や学校などが建設された。写真はかつて「陸軍被服本廠」の正門があった場所付近。写真左手には、1962(昭和37)年に「北区立赤羽台中学校」が開校したが、2006(平成18)年に「北区立北中学校」と統合され「北区立桐ケ丘中学校」となり移転。その後、仮校舎などに使用されたのち、2017(平成29)年、跡地に「東洋大学 赤羽台キャンパス」が開設された。

跡地に建設された「日本住宅公団」(現「UR」)の「赤羽台団地」は、1962(昭和37)年に入居開始となった。完成当時、23区内で最大となる3,373戸の大規模団地であった。画像は1960年代の「赤羽台団地」。右手前は「北区立赤羽台西小学校」(1962(昭和37)年開校)の体育館で、1964(昭和39)年に完成し、現在も同じ建物が使用されている。「赤羽台団地」では、2000(平成12)年から全面建て替え事業が進行中で、現在は「ヌーヴェル赤羽台」と呼ばれるようになった。写真左側の旧32号棟一帯は「ヌーヴェル赤羽台」の1号棟として建て替えられ、2006(平成18)年に完成した。
MAP __【画像は1960年代】

「赤羽台団地」に導入されたポイント型住宅「スターハウス」などの建物4棟(旧41~44号棟)は、2019(令和元)年、団地の建物として初めて、国の登録有形文化財となり、保存・活用されていくことになった。ポイント型住宅とは、単調になりがちな団地のアクセントとなるよう配置された棟で、その中でも、上から見てY字型・各階が3住戸となる建物は「スターハウス」と呼ばれた。写真の一帯は2023(令和5)年に「URまちとくらしのミュージアム」となる。
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北区域の軍施設と陸軍専用線・陸軍電気軌道

『軍都』となった王子区一帯には、陸軍専用の鉄道(以下・陸軍専用線)、電気軌道(以下・陸軍電気軌道)が敷かれた。地図は1934(昭和9)年の出版の『模範 新大東京全図』の一部に記載の軍施設名・陸軍専用線(ピンク字で記載)・陸軍電気軌道(青字で記載)を強調する加工を加えたもの。記載の軍施設は、滝野川区の「下瀬火薬製造所」(地図では下部、昭和初期に平塚に移転、跡地はのちに「東京外国語大学」、現「西ヶ原みんなの公園」)のみ海軍で、ほかは陸軍となる。【図は1934(昭和9)年】

1908(明治41)年、「赤羽停車場」(現「赤羽駅」)の北側から「板橋兵器庫」(のちの「東京陸軍兵器補給廠」)を結ぶ陸軍専用線が開通。その後、途中(現「赤羽自然公園」付近)から「陸軍被服本廠」などへ向かう引込線も整備された。戦後、「東京陸軍兵器補給廠」は米軍により接収され「TOD第1地区」となり、専用線は引き続き米軍が使用したが、1953(昭和28)年頃に休止、その後廃止になったという。写真は昭和20年代、「朝鮮戦争」の頃の撮影で、米軍専用線を「TOD第1地区」方面へ向かう貨物列車。奥に見える建物は「近衛師団工兵大隊」跡地に開設された「国立王子病院」(現「東京北医療センター」)。 【画像は昭和20年代】

現在、陸軍専用線の廃線跡は「赤羽緑道公園」として整備されている。中央に見える橋が「赤羽緑道公園」の一部で、かつて陸軍専用線が通っていた所。中央奥に「東京北医療センター」が見える。MAP __(赤羽緑道公園)

現在の北区から板橋区にかけては、明治初期より多くの陸軍の兵器・弾薬を製造する施設が置かれた。1906(明治39)年、火薬などを運搬するため、これらの施設を結ぶナローゲージの陸軍電気軌道が完成、「太平洋戦争」の終戦頃まで使用された。写真は大正後期~昭和初期撮影の、客車・貨車をけん引する陸軍電気軌道の電車。昔の路面電車を小さくしたような外観となっている。正確な撮影位置は不明。【画像は大正後期~昭和初期】

陸軍電気軌道は、他の鉄道とは立体交差していた。写真は現在の埼京線と交差していた箇所で、橋台部分が現在も残る。
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