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情報の発信地

日比谷・有楽町エリアは、現在の日本における新聞の三大紙『読売新聞』『毎日新聞』『朝日新聞』につながる新聞社が置かれていた時期もあるなど、情報の発信地としての歴史も持つ。また、「日比谷公園」は、1905(明治38)年には「日比谷焼打事件」へ発展する集会の会場となり、「大正デモクラシー」の時代には「護憲運動」「米騒動」「普選運動」など、民衆運動の拠点となった。現在に至るまで多くの政治的な集会やデモでも利用されており、民衆が意思を表示する場ともなっている。


『都新聞』と「日比谷焼打事件」

『都新聞』は、1884(明治17)年、京橋で創刊された夕刊紙『今日(こんにち)新聞』に始まり、1888(明治21)年に朝刊紙『みやこ新聞』となり、翌年『都新聞』へ改題。文学や芝居関係の記事が充実し、『娯楽新聞』として庶民に人気があった。1890(明治23)年、「日比谷公園」の予定地の南に煉瓦造りの社屋を建設し移転してきた。当時、霞ヶ関への「官庁集中計画」があり(この計画自体はその後頓挫)、1890(明治23)年には現在の「経済産業省」の場所に「帝国議会」の「仮議事堂」、1895(明治28)年には「司法省」の庁舎(現「法務省旧本館」)ができるなど、「日比谷公園」周辺が国政の中心地となりつつある時代であった。写真は1905(明治38)年~1909(明治42)年の撮影で、中央奥の建物が「都新聞社」。1905(明治38)年からの一時期、「日比谷公園」の南側の通りには「東京電気鉄道」の路面電車(蓬莱橋線の一部)が通っていた。この区間は1909(明治42)年の「烏森駅」(現「新橋駅」)の開業に合わせ、現在の「外堀通り」上を通るルートに変更となり廃止された。
MAP __(都新聞社)【画像は1905(明治38)年~1909(明治42)年】

『国民新聞』は徳富蘇峰が1890(明治23)年、銀座で創刊した日刊紙。当初は平民主義的であったが、のちに国家主義的な論調となり、政府系の『御用新聞』とも呼ばれた。1905(明治38)年9月5日、「日比谷公園」で「日露講和条約(ポーツマス条約)」締結に反対する集会が開催される予定であったが、政府が集会の禁止令を出したため一部民衆が暴徒化(のちに「日比谷焼打事件」と呼ばれる)、銀座にあった「国民新聞社」も暴徒の被害にあった。写真は事件当日の事件発生前、「日比谷公園」の集会へ向かう群集の様子で、右に見える門が公園の正門。【画像は1905(明治38)年】

『国民新聞』は大正中期には『東京日日新聞』『報知新聞』『時事新報』『東京朝日新聞』と共に「東京五大新聞」の一つに数えられるようになった。1923(大正12)年の「関東大震災」により経営難となり、「根津財閥」の根津嘉一郎などの出資を仰いだ。しかし、方針の違いから1929(昭和4)年に徳富蘇峰が退社。その後、1933(昭和8)年、名古屋の「新愛知新聞社」(現「中日新聞社」)に譲渡された。1942(昭和17)年、戦時下の新聞統制により『都新聞』と『国民新聞』が統合され『東京新聞』となった。このとき「新愛知新聞社」は『国民新聞』の経営から撤退している。

戦後、「東京新聞社」は経営不振となり、1963(昭和38)年、「中部日本新聞社」(戦前の一時期『国民新聞』を発行していた「新愛知新聞社」の後身)が支援することとなった。1965(昭和40)年、品川に「中部日本新聞社 東京本社」の新社屋が完成、1967(昭和42)年、『東京新聞』の営業権・発行権は「中部日本新聞社」(1971(昭和46)年より「中日新聞社」)へ譲渡された。写真左はかつて「都新聞社」「東京新聞社」があった場所で、現在は「日本プレスセンタービル」となっている。品川にあった「中日新聞 東京本社」は、2006(平成18)年に「日本プレスセンタービル」の二軒隣の「日比谷中日ビルディング」(1973(昭和48)年竣工)へ移転してきており、現在はかつての「都新聞社」「東京新聞社」の本社に近い場所で『東京新聞』の編集が行われている。

「報知新聞社」と「読売会館」 MAP __

1872(明治5)年、日本橋・横山町にて、前島密(のちに「郵便制度の父」と呼ばれる)が『郵便報知新聞』を創刊。翌年、社屋を薬研堀町に移転した。明治前期には、のちに総理大臣を務める犬養毅、原敬も記者として在籍していた。1894(明治27)年に『報知新聞』へ改題、社屋は1893(明治26)年に京橋区三十間堀へ、さらに1905(明治38)年に、当時建設中だった「有楽町駅」(1910(明治43)年開業)の前へ移転した。写真は明治後期の社屋。【画像は明治後期】

写真は1922(大正11)年に近代的社屋として、前掲の社屋に隣接して建設された新館。『報知新聞』は大正期には『東京五大新聞』の一つに数えられるようになったが、「関東大震災」後は経営不振となり、一時期は「講談社」の傘下に入った。1942(昭和17)年、戦時下の新聞統制により「読売新聞社」と合併、新聞名は『読売報知新聞』へ改題され、有楽町の旧「報知新聞社」の社屋は「読売新聞社」の別館となった。【画像は1922(大正11)年】

1946(昭和21)年、旧「報知新聞社」の有志が「読売新聞社」から独立し夕刊紙『新報知』を創刊、1948(昭和23)年に『報知新聞』に改題。しかし、経営難から翌年、再び「読売新聞社」の傘下に入り、「読売新聞社」系の朝刊スポーツ紙(現『スポーツ報知』)となった。有楽町の「読売新聞社」別館(旧「報知新聞社」社屋)には、終戦後、銀座の本館が戦災から復旧する1947(昭和22)年まで本社が置かれ、その後も「読売新聞社」のグループが使用した。1957(昭和32)年に村野藤吾氏設計の「読売会館」(写真)が竣工し、テナントとして「そごう 東京店」が開店、7階から9階には「よみうりホール」がオープンした。【画像は1957(昭和32)年】

「そごう 東京店」(のち通称「有楽町そごう」)は、大阪の百貨店「そごう」が初めて東京に進出した店舗であった。「そごう 東京店」の開店へ向けたキャンペーンで使用されたキャッチフレーズ『有楽町で逢いましょう』は流行語となり、開店後には同名の楽曲や映画も制作された。「有楽町そごう」は2000(平成12)年に閉店、翌年「ビックカメラ 有楽町店」が開店し現在に至る。「よみうりホール」は2014(平成26)年に「有楽町よみうりホール」と改称、試写会、講演会、落語会などの会場として利用されている。

明治期から有楽町で発行された『東京日日新聞』MAP __

1872(明治5)年、「日報社」が東京最初の日刊紙となる『東京日日新聞』を創刊。当初の社屋は浅草にあったが1874(明治7)年から銀座に置かれた。有楽町へ社屋が移転したのは1909(明治42)年。1911(明治44)年、「大阪毎日新聞社」は「日報社」を買収し「大阪毎日新聞社 東京支店」(現「毎日新聞 東京本社」)を開設、『東京日日新聞』を引き継いで発行するようになった。写真は1922(大正11)年に完成した「大阪毎日新聞社 東京支店」の新館で、昭和初期に撮影されたもの。【画像は昭和初期】

1938(昭和13)年、新館の南隣に、日本で二番目となるプラネタリウム「東日天文館」も併設された「東日会館」が完成した。戦時中の1943(昭和18)年、新聞統制により『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』が統合され『毎日新聞』となった。【図は昭和戦前期】

1966(昭和41)年、「毎日新聞 東京本社」は千代田区一ツ橋へ移転。跡地には「新有楽町ビルヂング」の第2期部分が建設され、1969(昭和44)年に完成した。写真の「新有楽町ビルヂング」のうち、中央部分付近が「東日会館」のあった場所となる。「新有楽町ビルヂング」は通りを挟んで隣接する「有楽町ビルヂング」とともに2023(令和5)年に閉館となり、建て替えが進められる予定となっている。

昭和初期に有楽町へ移転してきた「朝日新聞社」 MAP __

「朝日新聞社」は1879(明治12)年に大阪で創立され、同年『朝日新聞』が創刊された。1888(明治21)年、『めさまし新聞』を買収し東京に進出、「東京本社」を開設し『東京朝日新聞』を発刊した。当初は銀座に社屋があったが、1927(昭和2)年、有楽町に新社屋を建設、移転した。写真は昭和戦前期の有楽町の社屋。移転翌年の1928(昭和3)年、建物に日本初となる電光掲示板(写真では右側面に見える長方形の板状のもの)が設置された(大阪の本社にも同時に設置)。【画像は昭和戦前期】

1980(昭和55)年、「朝日新聞 東京本社」の社屋が築地に新築され移転。「東京本社」跡地は、隣接する「日本劇場」跡地と一体として「有楽町駅前再開発事業」が行われ、1984(昭和59)年に「有楽町センタービル」(通称「有楽町マリオン」)がオープンした。写真は現在の様子で、写真中央のビルの場所が「朝日新聞社」の跡地。オープン当初、このビルの商業施設部分には「有楽町西武」がキーテナントとして入居したが2010(平成22)年に閉店、翌年「ルミネ有楽町」が開業した。


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