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「日比谷公園」の歴史

1889(明治22)年、東京の「市区改正」(都市計画)に基づく公園として「日比谷公園」の設置が決定。最終的な設計案は、明治30年代、林学博士の本多静六によりまとめられた。1902(明治35)年に着工となり、翌1903(明治36)年、日本初の洋風近代式公園として開園した。その後、公園内には音楽堂、図書館、公会堂なども整備され、文化の拠点ともなった。



「日比谷公園」が開園するまで MAP __(日比谷交差点)

現在の「日比谷公園」の場所は、江戸期には萩藩毛利家など大名の上屋敷があった。1871(明治4)年に「陸軍操練所」が置かれ、1885(明治18)年に「日比谷練兵場」へ改称。この頃、周辺の開発が進んできたことから、翌1886(明治19)年に「青山練兵場」へ移転した。

東京では1879(明治12)年頃より「市区改正」(都市の改造)の検討が進められていた。1888(明治21)年、周辺の道路整備と合わせ、「日比谷練兵場」跡地に公園を設置することが提案された。審議の結果、翌1889(明治22)年、「東京市区改正設計」が告示され、周辺の道路(現「日比谷通り」など)の整備とともに「日比谷公園」の整備が正式に決定した。

その後、さまざまな「日比谷公園」の設計案が作成・検討されたが、東京市営で初となる公園であることから理想も高く、決定するまでには至らなかった。進まない設計に市会や市民から批判が出るようになったこともあり、1900(明治33)年、「日比谷公園造園委員会」を設置、林学博士の本多静六らに設計を依頼。ドイツの留学経験から、ドイツの公園を範とし、花壇や噴水、音楽堂、運動場などが計画された。本多博士はのちに「奈良公園」など国内に多くの公園を設計し、のちに「日本の公園の父」と呼ばれるが、この「日比谷公園」が初めて設計する公園であった。

「日比谷門脇山下門脇道路開設及濠池埋立乃図」

1900(明治33)年に発行された『東京市区改正委員会議事録 第10巻』に掲載された「日比谷門脇山下門脇道路開設及濠池埋立乃図」(画像をクリック)。
【図は1900(明治33)年発行】

その後、本多博士の設計案での建設が決定し、1902(明治35)年に着工、翌1903(明治36)年に開園を迎えた。図は1900(明治33)年に発行された『東京市区改正委員会議事録 第10巻』に掲載された「日比谷門脇山下門脇道路開設及濠池埋立乃図」。図の中央上部付近が現在の「日比谷交差点」となる。かつての道路や「中濠」(「内濠」と「外濠」を結ぶ濠)、区画が描かれており、わかりやすくするため、拡大画像(画像をクリック)の方に注釈・着色を入れている。現在、「日比谷公園」内に一部が残されている「江戸城」の石垣や、明治期に「日比谷御門」入口付近に造られ、その後、道路整備のため廃業となった「東京ホテル」の場所などについても追記している。


「中濠」の一部であった「心字池」 MAP __

写真は明治後期~大正前期に撮影された「日比谷公園」の園内で、「心字池」から西方面を望んでいる。「心字池」は、江戸期には「江戸城」の「中濠」の一部であった。奥に見える煉瓦の建物は、右が「司法省」(現「法務省」)、左が「大審院」(現在の「最高裁判所」に相当)の庁舎。【画像は明治後期~大正前期】

現在も「心字池」の東側には「中濠」の石垣が残る。写真はその石垣の上からの撮影。

「日比谷公園」開園と同時に開業した「日比谷松本楼」 MAP __

東京市は「日比谷公園」の開園にあたり、レストラン・喫茶店の経営者を公募した。現在も公園内にある「日比谷松本楼」は、この公募で出店が決まった一軒で、1903(明治36)年の開園以来、園内のレストランとして親しまれている。この「松本楼」は、元は1872(明治5)年、銀座に開業した料理店で、戦前期には「小松食堂」や料亭「銀座松本楼」も経営、終戦後に「小松ストアー」を開店し、現在は「ギンザコマツ」となっている。

「日比谷松本楼」の開業当初の建物は1923(大正12)年の「関東大震災」で焼失。その後、再建されたが、終戦後は「日比谷公園」全体が「GHQ」に接収され、「日比谷松本楼」は宿舎として利用された。写真は大正後期~昭和戦前期の「日比谷松本楼」。【画像は大正後期~昭和戦前期】

1951(昭和26)年、「日比谷公園」の接収が解除され、「日比谷松本楼」も営業を再開した。その後、1971(昭和46)年の「日比谷暴動事件」に「日比谷松本楼」が巻き込まれ、二代目の建物を焼失、翌々年に再建され現在に至る。開店以来、国内外の政治家や文人など、多くの著名人も訪れている。

「日比谷公園」の音楽堂

写真は「日比谷公園」内に造られた国内初の野外音楽堂「日比谷音楽堂」で、1905(明治38)年に初演が行われた。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

現在は「日比谷公園 小音楽堂」と呼ばれ、建物は三代目となる。

「日比谷公園」内には、1923(大正12)年に「大音楽堂」も開設された。写真は昭和戦前期の撮影。
MAP __【画像は昭和戦前期】

戦後は「GHQ」に接収され、接収解除後の1954(昭和29)年、改築の上、二代目「大音楽堂」として再開。さらに老朽化から全面改築工事が行われ、1983(昭和58)年に三代目「大音楽堂」が完成した。現在は「日比谷公園 大音楽堂」、一般には「日比谷公園 野外音楽堂」「日比谷野音(やおん)」などと呼ばれ、さまざまなアーティストのコンサートや、音楽祭、集会などに利用されている。2023(令和5)年、東京都は「大音楽堂」の再整備の基本方針を発表しており、今後改築される予定となっている。

1908(明治41)年に開館した「日比谷図書館」 MAP __

1908(明治41)年、「日比谷公園」の敷地内南側に「東京市立日比谷図書館」が開館した。写真は明治後期~大正前期の撮影。1923(大正12)年の「関東大震災」では倒壊を免れた。その後、一部改修工事が行われ、1943(昭和18)年には都制施行により「東京都立日比谷図書館」となったが、戦時中の空襲で全焼した。【画像は明治後期~大正前期】

戦後、「東京都立日比谷図書館」は、1949(昭和24)年に「京橋仮館舎」で再開され、1957(昭和32)年、「日比谷公園」内に特徴的な三角形の平面を持つ建物が完成した。写真は1959(昭和34)年頃の撮影。【画像は1959(昭和34)年頃】

図書館の建物は2009(平成21)年に千代田区へ移管され、改修ののち、2011(平成23)年に「千代田区立日比谷図書文化館」として開館、現在に至っている。

「市政会館」と「日比谷公会堂」 MAP __

1922(大正11)年、当時の東京市長、後藤新平により東京市政のための中正独立の調査機関「東京市政調査会」が設立された。設立にあたって、「安田財閥」の創設者・安田善次郎より賛同と巨額の寄付の申し出があったものの、善次郎は凶刃に倒れ急逝。遺志を継いだ二代目善次郎の寄付により、「市政会館」(南側部分)と付随する「日比谷公会堂」(北側部分)が建設された。建物は指名設計競技で一等となった佐藤功一の設計で、1929(昭和4)年に竣工した。【画像は昭和初期】

「東京市政調査会」は2012(平成24)年に「後藤・安田記念東京都市研究所」と改称、現在も「市政会館」内で都市政策などの調査研究を行っている。「日比谷公会堂」は戦後しばらくまで、東京で唯一のコンサートホールとして、プロのオーケストラの演奏会などが行われたが、その後、周辺に本格的なクラシック音楽用のホールが造られると、講演会、イベントなどでの利用が中心となっていった。「日比谷公会堂」は老朽化などによる大規模改修工事のため、2016(平成28)年から施設の使用を休止している。


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