「朝野新聞」は、1872(明治5)年創刊の『公文通誌』を改題し、1874(明治7)年に発刊となった日刊の政論新聞。この頃、政府の言論弾圧もあり記者も処罰されたが、新聞としては最盛期となり日刊2万部近くを誇り、1876(明治9)年に社屋を銀座尾張町の四つ角に移転した。図は1879(明治12)年に描かれた『東京名所銀座通朝野新聞社盛大之真図』。民権派新聞として支持を集めたが、社長の死後、1886(明治19)年には犬養毅、尾崎行雄らが入社し「立憲改進党」色が濃くなり、その後内紛もあり1893(明治26)年に廃刊。社屋は、翌々年に「服部時計店」となった。
明治期には100を超える新聞社がこの地域にあり、現在、世界最大の発行部数を誇る「読売新聞」をはじめ、現存する新聞社の多くも銀座やその周辺で発展した。また、写真館、雑誌社、印刷所、広告会社などの進出もあり、一帯は一大情報発信地となっていた。