図は1903(明治36)年に発行された『東京市区改正新設計図』の一部(右方向が概ね北)。現在の「日比谷交差点」と「数寄屋橋」を直線的に結ぶ道路(現「晴海通り」の一部、地図では青線で示している)は、「市区改正」で計画され、1910(明治43)年頃に開通した。この道路は、江戸期に始まる丸ノ内の長方形の町割りに対して斜めに通されたため、道路の南(地図では左)に三角地、北(地図では右)に変形地が誕生した。
日比谷・有楽町周辺は商業地としても発展した。戦後から現在にかけては、庁舎や新聞社、オフィスビルなどの跡地の再開発により大型の商業施設も誕生し、多くの人々で賑わう街となった。