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スポーツの拠点となった「神宮外苑」

1918(大正7)年に策定された「神宮外苑」の当初計画では、「聖徳記念絵画館」「葬場殿址記念物」「憲法記念館」「陸上競技場」の四つの施設が予定されていたが、その後、スポーツ熱の高まりを受け、1924(大正13)年に計画を変更し、野球場、水泳場、相撲場も設けられることになった。


「出陣学徒壮行会」も行われた「明治神宮外苑競技場」 MAP __

「明治神宮外苑競技場」は1919(大正8)年に着工、「神宮外苑」全体が完成する2年前、1924(大正13)年に竣工した。1936(昭和11)年に、1940(昭和15)年「東京オリンピック」の開催が決定すると、そのメインスタジアムの候補となった(その後、駒沢に競技場を新設することに決定)。しかし、「日中戦争」の勃発により、1938(昭和13)年に開催を返上した。【画像は昭和戦前期】

「太平洋戦争」が激化した1943(昭和18)年10月、内閣は挙国一致体制を強化するため、大学・高等教育諸学校の学生(理工系と教員養成系を除く)の徴兵猶予の廃止を決定、12月から入隊させることになった。これを受け、10月から11月にかけて、全国で「文部省」(現「文部科学省」)などが主催する「出陣学徒壮行会」が開催された。写真は、その最初となる、「明治神宮外苑競技場」で行われた「出陣学徒壮行会」。参加者は、「東京帝国大学」をはじめ、首都圏の77校から出陣する学徒(人数は軍事機密として伏せられた)と、それを見送る約6万5千人の観衆であった。【画像は1943(昭和18)年】

2度の「東京オリンピック」のメインスタジアムとなる「国立競技場」

戦後、「明治神宮外苑競技場」は「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」に接収され「ナイルキニック・スタジアム」(ナイルキニックは米国の軍人名)として使用、1952(昭和27)年に接収解除となり返還された。1954(昭和29)年、「第3回アジア競技大会」(1958(昭和33)年開催)の主会場となることが決まり、1956(昭和31)年に「文部省」(現「文部科学省」)に譲渡され、翌年建替え工事が着工となり、1958(昭和33)年に「国立霞ヶ丘陸上競技場」(以下「国立競技場」)が誕生した。同年、「第3回アジア競技大会」が成功裏に終わったこともあり、翌1959(昭和34)年、「東京オリンピック」(1964(昭和39)年開催、以下「1964年東京オリンピック」)の誘致に成功。「1964年東京オリンピック」ではメインスタジアムとなり、開会式、陸上競技、閉会式などが行われた。【画像は1964(昭和39)年】

「国立競技場」は、近年は音楽コンサートなどでも利用されるようになったが、陸上やサッカーなどの競技においては国際的な基準を満たさなくなったため、国際大会は行われなくなった。老朽化と、2013(平成25)年に決定した「東京2020オリンピック・パラリンピック」(以下「東京2020」)のメインスタジアムとするため建替えられることになり、2014(平成26)年に閉場、その後取り壊されて、「新国立競技場」(仮称)が建設された。写真は建替え直前の頃の「国立競技場」。【画像は2014(平成26)年】

2019(令和元)年、「新国立競技場」(設計は隈研吾氏)が竣工となり、正式名は建替え前と同じ「国立競技場」として開場。「東京2020」は新型コロナウイルス感染症の感染拡大により1年延期となり、2021(令和3)年にメインスタジアムとして、開会式、陸上競技、閉会式などが行われた。

『アマチュア野球の聖地』だった「神宮球場」 MAP __

「明治神宮奉賛会」は、1925(大正14)年、「神宮外苑」に野球場・水泳場・相撲場・庭球場の設置を決定した。同年、「明治神宮野球場」(以下「神宮球場」)が着工となり、翌1926(大正15)年、「神宮外苑」全体の完成・奉献と同時に開場した。開場の翌日からは当時絶大なる人気を誇っていた「東京六大学野球」の試合も行われた。「東京六大学野球連盟」は「神宮球場」建設にあたり寄付も行っており、現在に至るまで各試合の会場として使用されている。翌1927(昭和2)年には、第1回の「都市対抗野球大会」が行われ、1937(昭和12)年の第11回大会まで「神宮球場」で開催された(以降は「後楽園球場」で開催)。1931(昭和6)年には収容能力を上げるためスタンドの増築が行われ、ほぼ現在の外形となっている。戦前は『アマチュア野球の聖地』とも呼ばれ、プロ野球の公式戦が行われることはなかった。【画像は昭和戦前期】

「神宮球場」は、1945(昭和20)年、「太平洋戦争」中の「山の手大空襲」による火災で一部が被災、戦後は「GHQ」により接収され、連合国軍の専用球場「ステイトサイド・パーク」となったが、日本人の利用も認められた。1946(昭和21)年には連合国軍による修復工事も行われ、戦時中に中断していた「東京六大学野球」も復活。1948(昭和23)年以降は、戦前は行われなかった、プロ野球の公式戦も開催されるようになった。接収は1952(昭和27)年に解除されている。写真は1959(昭和34)年頃のグラウンド。【画像は1959(昭和34)年頃】

1962(昭和37)年、「東映フライヤーズ」(現「北海道日本ハムファイターズ」)は、本拠地だった「駒澤野球場」が「1964年東京オリンピック」の競技場整備のため閉鎖されたことから「神宮球場」で試合を開催するようになり、1964(昭和39)年には「国鉄スワローズ」(現「東京ヤクルトスワローズ」)も本拠地として使用するようになった。プロ野球の本拠地となった現在でも、「東京六大学野球」のほか、高校野球など、アマチュア野球の試合も多数開催されている。現在、「神宮外苑地区」の再開発の一環で移転・建替えが計画されている。写真は現在の「神宮球場」の外観。「神宮球場」のある場所は、江戸期は「飫肥藩伊東家下屋敷」や「青山甲賀百人組大縄地」であった。

「明治神宮相撲場」は戦後に「第二球場」へ MAP __

「明治神宮相撲場」(以下「相撲場」)も、1926(大正15)年、「神宮外苑」全体の完成・奉献と同時に開場した。写真は昭和初期の「相撲場」。戦後の1947(昭和22)年と、その翌年には「大相撲」の本場所興行も行われた。その後、野球場が建設されることになり、1961(昭和36)年に「明治神宮第二球場」(以下「第二球場」)が開場した。高校野球や大学野球などの試合のほか、ゴルフ練習場としても利用された。【画像は昭和初期】

「第二球場」は2019(令和元)年に閉鎖。「神宮外苑地区」の再開発のため解体が進められており、跡地には新しい「秩父宮ラグビー場」が建設される予定となっている。写真は2020(令和2)年の撮影。

1930(昭和5)年に開場した「明治神宮水泳場」 MAP __

1930(昭和5)年に「明治神宮水泳場」(通称「神宮プール」)が開場。国内競技会はもちろん、数多くの国際競技会も行われた。写真は昭和戦前期の撮影で、プールの東側より西方面を望んでいる。左端に飛び込み台が見える。【画像は昭和戦前期】

「神宮プール」は2002(平成14)年、老朽化のため閉鎖・解体となり、翌年、フットサルの「千駄ヶ谷コート」となったが、2017(平成29)年に閉鎖された。跡地には「三井ガーデンホテル 神宮外苑の杜プレミア」が2019(令和元)年に開業した。



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