1940(昭和15)年は皇紀2600年にあたり、日本政府はこれを記念してオリンピックを招致した。1936(昭和11)年に東京での開催が決定、当初メイン会場は代々木の「明治神宮外苑競技場」を予定していた。しかし、拡張用地確保の問題などから再検討されることとなり、「駒沢ゴルフ場」がある13万坪の土地に新たな競技場を建設することが1938(昭和13)年4月に決定となった。ところが、前年からの「日中戦争」で国際的な緊張が高まる中、国内外から開催の辞退を求める声が多く挙がり、1938(昭和13)年7月に開催を返上、駒沢の競技場は着工にも至らなかった。図は会場の予想図で、図中央に「紀元二千六百年記念広場」、図右に競技場、図左に水泳競技場、図上部に「オリンピック村」を建設する予定だった。
世田谷区は都市公園の総数や面積で23区内中3位(2021(令和3)年4月現在)を誇る。中でも「駒沢オリンピック公園」は区内にある公園として最大(敷地の一部は目黒区)と、区を代表する公園の一つとなっている。ここでは、戦後の「東京オリンピック」で第二会場となったのち開園した「駒沢オリンピック公園」の歴史を紹介する。