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神楽坂の賑わい

神楽坂は徳川家康の江戸入府前から、町が形成されていたといわれる。江戸時代になると、坂沿いは武家地や寺町となり、寺の縁日から賑わいの地、さらに繁華街・花街へと発展した。「地蔵坂」には江戸期からの寄席があり、明治期には夏目漱石も通っていたという。明治期以降も多くの寄席や演芸場で賑わい、明治後期から大正期にかけては複数の映画館も開業するなど、古くから娯楽の街でもあった。


神楽坂の歴史

徳川家康の江戸入府前から、現在の神楽坂の一部にあたる兵庫横丁周辺には、現・新宿区域としては唯一となる町が形成されていたといわれる。江戸時代になると、「牛込見附」と小浜藩酒井家の屋敷を結ぶ「神楽坂」(現「神楽坂通り」)が造られ、坂沿いは武家地や寺町となった。当時の「神楽坂」は現在よりも急で階段もあった。徳川家康により、1595(文禄4)年に日本橋馬喰町で開基された「毘沙門天 善國寺」は、1792(寛政4)年に「神楽坂」の寺町へ移転。ここの縁日へ多くの参詣客が訪れるようになり、周辺の「赤城神社」「行元(ぎょうがん)寺」(1907(明治40)年に西五反田へ移転)とともに、街の発展の礎となった。

図は歌川広重が1840(天保11)年頃に描いた『牛込神楽坂之図』。「神楽坂」を少し上った場所から「牛込御門」を望んでおり、北東側(図では左側)に武家屋敷、南西側(図では右側)に町屋が描かれている。
MAP __【図は1840(天保11)年頃】

現在の神楽坂三丁目付近から「神楽坂下交差点」方面を望む。この写真の撮影地の左側に『牛込神楽坂之図』の碑が建てられている。

明治期に入ると「神楽坂」沿いは武家屋敷から町人の街へと変わり、明治10年代に緩やかな坂道に直されている。寺町の岡場所から花街も誕生、1895(明治28)年には甲武鉄道(現・JR中央線)「牛込駅」の開業もあり急速に発展、東京有数の繁華街として賑わうようになった。また、周辺は尾崎紅葉、坪内逍遥をはじめ多くの文人が居住・活躍する場ともなり、文化的にも大きく発展した。写真は明治後期~大正期、「神楽坂」下からの撮影。左手前角の建物は菓子店「壽徳庵」。
MAP __【画像は明治後期~大正期】

現在の「神楽坂下交差点」から「神楽坂」を望む。「神楽坂通り」は時間帯により一方通行の方向が変わるほか、平日の12:00~13:00など、歩行者専用道路となる時間帯もある。

神楽坂は「関東大震災」では大きな被害がなかったため、震災後はさらに賑わい『山の手銀座』とも呼ばれるように。花街は震災前の大正初期から既に東京で有数の規模であったが、震災後には最大規模を誇るようになった。写真は震災後、大正後期~昭和戦前期の様子。写真の左側の店が「太白飴」で知られた「宮城屋」。その右の「木村屋」は「銀座木村屋」の支店のパン店で、1906(明治39)年に開店している。
MAP __【画像は大正後期~昭和戦前期】

「神楽坂木村屋」は明治期より続く老舗であったが2005(平成17)年に閉店しており、跡地は珈琲店(写真の左から2番目の店)となっている。

戦後の高度成長期にも神楽坂の花街は再び盛り上がりを見せ、華やかな街となった。
MAP __【画像は1959(昭和34)年】

現在は脈々と受け継がれてきた文化・伝統と新たな現代的な魅力が融合する人気の街となった。また、現在も神楽坂では花柳界も残っており、組合には料亭3軒と芸妓16名が所属している(2022(令和4)年6月現在)。

「牛込駅」の開業 MAP __

「牛込駅」は、1894(明治27)年、甲武鉄道の新宿~牛込間開通と同時に開業した駅。翌年には飯田町まで、その後も漸次延伸が行われ、1919(大正8)年に「東京駅」まで開通した。1928(昭和3)年、「関東大震災」の復興事業による複々線化工事の際、駅間が近かった「牛込駅」と「飯田町駅」の電車線ホームが統合され、「飯田橋駅」が誕生した。写真は明治後期~大正期の撮影で、手前が「牛込駅」の駅舎、その北(写真では上)に「牛込濠」が広がり、その先が「神楽坂」の入口となる。「牛込駅」から「神楽坂」の入口までは「牛込見附」の坂の隣に通路・橋が設けられており、坂を通らないで行き来することができた。【画像は明治後期~大正期】

現在の同地点付近の様子。JR「飯田橋駅」では、2014(平成26)年度着手の駅改良工事の一環で、総武線のホームを200mほど新宿寄りに移設、2020(令和2)年に新ホーム(写真中央付近)が使用開始となった。これにより、かつて「牛込駅」があった場所付近にホームが復活した。

牛込区の寄席と映画館

「神楽坂」の「善国寺」と「神楽坂上」の間から南に入る「地蔵坂」付近は、江戸期より通称「藁店(わらだな)」と呼ばれていた。ここには、江戸期に始まる人気の寄席「牛込藁店亭」があった。夏目漱石も通ったといわれ、『吾輩は猫である』『それから』などの作品にも「藁店」の地名が登場する。1891(明治24)年に改築され「和良店亭(わらだなてい)」と改称。1906(明治39)年、本格的な舞台を備えた洋風2階建ての「牛込高等演芸館」に改築され、1908(明治41)年から1911(明治44)年までの間には、この建物内に日本で初めての俳優養成所「東京俳優学校」も開設されていた。

写真は明治後期~大正初期の「牛込高等演芸館」。1914(大正3)年に映画館の「牛込館」となり、戦時中に「神楽坂松竹」と改称したが、戦災により閉館となった。明治後期から大正期の間は、神楽坂から早稲田にかけての地域でも映画館の開業が続いた時期で、神楽坂では1908(明治41)年の「文明館」を皮切りに、1914(大正3)年に前述の「牛込館」、1915(大正4)年に「羽衣館」が開業している。【画像は明治後期~大正初期】

現在の「地蔵坂」。この坂の右側に「牛込館」があった。
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