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「青山練兵場」から「神宮外苑」へ

現在の「明治神宮外苑」一帯は、江戸期には武家の屋敷や寺院などが集まる地であった。これらの土地は、明治期に収用され広大な「青山練兵場」が開設された。明治後期にはこの練兵場の土地を転用し、博覧会会場とする計画が進められたが実現せず、明治天皇崩御後に「明治神宮外苑」として整備された。


日比谷から移転してきた「青山練兵場」

現在の「明治神宮外苑」(以下「神宮外苑」)一帯は、江戸期には「篠山藩青山家下屋敷」などの大名の屋敷のほか、旗本などの小規模な武家屋敷、与力・同心の大縄地、寺院などが集まる地であった。また、幕府の「御焔硝蔵」(火薬庫)、「御鉄砲場」(鉄砲の練習場)もあった。明治期に入ると屋敷の跡は茶畑などにも利用されていた。図は「青山練兵場」が開設される前、1880年代のこのあたりの地図。明治後期頃の「青山練兵場」のおおよその範囲を緑線で示している。【図は1880年代】

一帯は、明治中期までに政府が収用し、1886(明治19)年、現在の「日比谷公園」一帯にあった「日比谷練兵場」が移転。四谷区(現・新宿区)と赤坂区(現・港区)にまたがる「青山練兵場」が誕生した。しかし、1907(明治40)年、「青山練兵場」の場所を「日本大博覧会」の会場とすることが決定、陸軍としても「青山練兵場」よりさらに広い練兵場が必要となっていたこともあり、同年、代替地として、代々木一帯の土地(現「代々木公園」)を収用、1909(明治42)年に「代々木練兵場」が誕生した。図は1909(明治42)年頃の「青山練兵場」周辺の地図。【図は1909(明治42)年頃】

写真は明治後期の「青山練兵場」。奥の建物群は「近衛歩兵第四聯隊」の兵営。現在、兵営の跡地には「東京都立青山高等学校」と「國學院高等学校」がある。【画像は明治後期】

「青山練兵場」は、1909(明治42)年の「代々木練兵場」の誕生以降も、1912(大正元)年の明治天皇の「葬場殿の儀」、1913(大正2)年の陸軍の観覧飛行、1914(大正3)年の「東京大正博覧会」(第三会場)など、さまざまな行事・イベント会場として使用された。写真は1915(大正4)年、大正天皇が臨席し行われた「大礼観兵式」で、「青山練兵場」の北東側から南方面を撮影したもの。上空には陸軍の「所沢飛行場」から飛来してきた飛行隊の姿も見える。右奥の建物群が「近衛歩兵第四聯隊」の兵営。【画像は1915(大正4)年】

1916(大正5)年4月、「青山練兵場」で「鳥人」とも呼ばれたアメリカ人飛行家、アート・スミスの飛行大会が行われた。3日間の開催で、各日12万人以上の観客が集まったといわれ、宙返り、急降下、低空飛行といった曲芸飛行や、飛行機と豆自動車との競争などが行われた。その後、全国各地で飛行大会が行われたのち、6月には再度「青山練兵場」での飛行大会が行われ、その際には皇太子殿下(のちの昭和天皇)のための特別飛行も実施された。好評を得たことから、アート・スミスは翌年も来日し、「青山練兵場」をはじめ、全国各地で飛行大会を開催した。写真は1916(大正5)年の飛行大会(正確な撮影場所は不明)の様子。【画像は1916(大正5)年】


幻となった「日本大博覧会」

『日本大博覧会敷地附近之図』

図は1907(明治40)年頃作成された『日本大博覧会敷地附近之図』。現在、「明治神宮」と「神宮外苑」を結ぶ、JR中央線の南側の道路、現在の「内苑外苑連絡道路」の敷地は、1907(明治40)年に「日本大博覧会」の両会場の連絡道路の用地として計画、収用された。しかし、博覧会が中止となったため、しばらく空地となっていたが、その後「神宮外苑」の整備に合わせ工事が進められ、1928(昭和3)年に竣工した。
【図は1907(明治40)年頃作成】

世界における国際博覧会の歴史は、1851(嘉永4)年、ロンドンのハイドパークで開かれた「ロンドン万国博覧会」(通称「大博覧会」)に始まる。日本は、1867(慶応3)年の「第2回パリ万国博覧会」に初めて出展している。明治期に入り、日本で最初の博覧会といわれる1871(明治4)年の「京都博覧会」、1877(明治10)年の「第一回内国勧業博覧会」(会場は「上野公園」)の開催以降、「博覧会ブーム」となり、「文明開化」を感じる場となった。

1889(明治22)年には、翌年の「第三回内国勧業博覧会」を国際博覧会として開催する建議も上がったが、時期尚早として実現しなかった。1905(明治38)年、日本は「日露戦争」に勝利し国際的な地位が向上したこともあり、翌1906(明治39)年、「日本大博覧会」を1912(明治45)年に開催することが決定。1907(明治40)年、陸軍の「青山練兵場」一帯を購入し「青山会場」、皇室の「南豊島御料地」(「代々木御料地」とも呼ばれた)を借用し「代々木会場」とし、両会場間には連絡道路が設けられることになった。

現在の「内苑外苑連絡道路」

写真は現在の「内苑外苑連絡道路」。右の建物は「東京体育館」。
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このように、政府は「日本大博覧会」の開催に向けて動きだしたが、1908(明治41)年、「日露戦争」後の不景気による財政難を理由に当初計画より5年延期し、明治50年を記念して開催されることになり、「明治五十年大博覧会」とも呼ばれるように。会場の設計は公募され、一等は吉武東里(よしたけとうり、「国会議事堂」の設計者の一人)の案となった。出展内容は工業、建築、教育などの分野を予定して準備が進められた。しかし、1912(大正元)年、明治天皇の崩御、政権交代、「第一次世界大戦」の勃発などを理由に無期延期(実質中止)に。すでに「青山会場」および「代々木会場」の一部では、博覧会のための工事が始まっており、これが、のちに「明治神宮」と「神宮外苑」の整備へとつながっていく。


明治天皇の「葬場殿の儀」

1912(明治45)年7月、明治天皇が崩御。「大喪儀」のうちの「葬場殿の儀」が「青山練兵場」(「日本大博覧会 青山会場」予定地)で行われた。同(大正元)年9月13日、午後8時に明治天皇の葬列が「宮城」(現「皇居」)を出発、青山の「葬場殿」へ向かった。夜間ではあったが、沿道は葬列を見送る人々で埋め尽くされた。午後11時前、「葬場殿」に到着。深夜に「葬場殿の儀」が行われ、翌9月14日午前2時に「青山仮停車場」から「霊柩列車」が出発、中央線、山手線、東海道本線を経由して、墓所となる京都の「伏見桃山陵」そばの仮停車場へ向かった。写真中央付近、2つの鳥居の奥が「葬場殿」。【画像は1912(大正元)年】

図は「青山式場及停車場平面図」。「葬場殿」があった場所には、のちに「葬場殿址記念物」として石碑が建立された。
MAP __(葬場殿址)【画像は1912(大正元)年】

写真は「青山仮停車場」。線路は「青山練兵場」時代に中央線のすぐ南側に敷設されていた軍用の引込み線を利用している。【画像は1912(大正元)年】

現在の「首都高速4号新宿線」の「外苑出入口」(写真では右側)付近が「青山仮停車場」が建設された場所。左には中央線が見え、その奥の建物が「信濃町駅」となる。
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「神宮外苑」の建設

明治天皇が1912(明治45)年7月30日に崩御すると、「東京市会」(現「東京都議会」)は、その日のうちに、御陵を東京に造営することを国へ希望する請願を決議。8月3日に、東京市長は「枢密院」議長の山縣有朋に、御陵の件と明治天皇を祀る神社の設置を陳情した。しかし、御陵については、明治天皇の遺言から、8月6日に京都に造営(のちに「伏見桃山陵」と命名)されることが公示された。その後、東京市は神社(8月9日頃に仮称ながら「明治神宮」と呼ばれるようになったといわれる)の設置に向けて動き、8月14日には東京市長や東京の財界の有力者らが中心となり『明治神宮建設に関する覚書』を作成。この覚書には、『神宮は「内苑」と「外苑」から成る』『内苑は「国費」によって国が、外苑は「献費」によって奉賛会が造営する』『内苑の造営場所は「代々木御料地」、外苑の造営場所は「青山練兵場」が最適である』『外苑には「記念宮殿・陳列館・林泉」等を建設する』などと記されており、わずか半月で構想された計画ながら、のちに概ね実現となるものであった。これに記されている「代々木御料地」は「日本大博覧会 代々木会場」の予定地、「青山練兵場」は「日本大博覧会 青山会場」の予定地であった。

昭和初期の「神宮外苑」の平面図

昭和初期の「神宮外苑」の平面図。

「帝国議会」では、1913(大正2)年に「明治神宮」の建設についての建議があった。これに前後して、「筑波山」付近、「富士山」付近、「箱根離宮」付近などを建設地とする請願も出されたが、翌年、正式な社名は「明治神宮」に、「明治神宮(内苑)」が「代々木御料地」、「神宮外苑」が「青山練兵場」に建設されることが決定した。

1915(大正4)年、国の「明治神宮造営局」が設置され、「明治神宮」が着工。造営工事には、1919(大正8)年より全国の青年団の勤労奉仕も加わり、1920(大正9)年に創建となった。

1915(大正4)年には、「神宮外苑」の造営を担当する民間団体「明治神宮奉賛会」も設立された。1917(大正6)年、「明治神宮造営局」に「神宮外苑」の設計・工事を委嘱、道路・競技場などの位置が決定し、翌年に着工となった。1917(大正6)年には「恩賜館」の「神宮外苑」への移築も着工しており、翌年竣工、「憲法記念館」(現「明治記念館」)と改称している。「神宮外苑」の工事でも、1920(大正9)年以降、全国の青年団の勤労奉仕が行われた。「関東大震災」による工事の一時中断を経て、1926(大正15)年に完成、「明治神宮」に奉献された。明治天皇の「葬場殿の儀」が行われた「葬場殿」があった場所には、「神宮外苑」の造営の中で「葬場殿址記念物」として、石壇が造営され、その中に「葬場殿址」の石碑が建立、記念樹として楠が植樹された。


「神宮外苑」に建設された「日本青年館」

「明治神宮」の造営のため、全国からのべ11万人の青年団員が勤労奉仕を行った。「明治神宮」が完成した1920(大正9)年、その功績が当時の皇太子殿下(のちの昭和天皇)から称えられると、これを記念する会館の建設の声が起こり、1921(大正10)年に「財団法人日本青年館」が設立された。会館は「神宮外苑」内に建設されることになり、その敷地は「明治神宮奉賛会」が永代無償で貸与することに。1922(大正11)年に着工、1925(大正14)年に「日本青年館」が完成した。宿泊施設のほか、講堂、図書室などを備えた施設で、1926(大正15)年に結成された日本初のプロオーケストラ「新交響楽団」(現「NHK交響楽団」)の最初の本拠地として、定期演奏会も行われた。
MAP __【画像は昭和戦前期】

終戦後、「日本青年館」は「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)」に接収されたが、1953(昭和28)年に解除となり運営を再開。「1964年東京オリンピック」では、プレスセンターとなった。1979(昭和54)年、全国の青年団の募金などにより、地上9階・地下3階建ての二代目の会館に建替えられ、特に全国の学校の修学旅行の宿舎としても活用された。この二代目の会館は、「東京2020オリンピック・パラリンピック」開催に向けた「国立競技場」の建替えのため、2015(平成27)年に休館・解体となった。同年、新しい会館は、南側へ約80mの地となる、「西テニス場」跡に着工。2017(平成29)年、三代目の「日本青年館」が、地上16階・地下2階建て、ホテル、ホール、オフィスからなる複合施設としてオープンした。現在も全国の青少年活動を応援し、文化や芸術の発展やスポーツ振興に寄与する施設となっている。写真の左のビルが現在の「日本青年館」。中央の道路の突当り付近、現在の「国立競技場」の敷地内が建替え前の場所となる。
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明治天皇の生涯を描いた絵画を展示する「聖徳記念絵画館」 MAP __

「聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)」(以下「絵画館」)は、「神宮外苑」の中心施設として計画された、明治天皇の生涯の事績を描いた絵画を展示する美術館。設計は1918(大正7)年に一般募集され、156通の応募図案から小林正紹(まさつぐ)氏(官庁営繕で活躍した建築家)の案に決定、翌年に着工、1926(大正15)年に竣工した。建設地は、1912(大正元)年の明治天皇の「大喪儀」で、「葬場殿」が置かれた場所であった。展示する作品の画題は、1916(大正5)年から検討が始まり、1922(大正11)年、全80点(日本画40点、洋画40点)を、画一のサイズ(実際のサイズは縦約2.7m、横約2.1~2.5m)で制作することが決定。まず、考証や現地取材に基づく「画題考証図」が作成され、これを参考に、鏑木清方氏など、当時の一流の日本画家・洋画家らが作品を描いた。1926(大正15)年の開館当初は日本画1点、洋画4点の5点の展示であったが、その後、随時搬入され、1936(昭和11)年に全80点が完成、翌年本公開となった。【画像は昭和戦前期】

戦後、「絵画館」は「GHQ」に接収され、1947(昭和22)年に接収解除、翌年、再開館したが、戦争関連の絵画18点は非公開となった。この18点は、1952(昭和27)年、「サンフランシスコ講和条約」の発効以降、復元展示された。写真は現在の「絵画館」。作品は、1番の『御降誕』に始まり、80番の『大葬』まで年代順に展示されている。建物は、2011(平成23)年に国の重要文化財に指定されている。


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