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地域に根付いた特産品

高槻・茨木の村々では、農閑期の産業として寒天が製造され、特産品となっていた。江戸時代には、寒天は長崎を経由して海外にも輸出していた。また「北摂三銘酒」の一つとして知られる「富田の酒」は、現在も老舗により伝統が守られている。


江戸時代から、農閑期の産業だった寒天製造

高槻・茨木の一部の山村では、江戸後期から農閑期の産業として、寒天の製造が盛んに行われた。原料の入手や製品の運搬に便利な「淀川」に近い「西国街道」沿いの村々が生産の中心となっていた。寒天の製造工程は晒場、天場、棚場の三つに大きく分かれ、9月後半から作業が開始、完成した寒天の一部は、長崎を通じて海外にも輸出されていた。【画像は1963(昭和38)年】


富田の酒

富田の伝統を守る「清鶴酒造」

富田の伝統を守る「清鶴酒造」。 MAP __

池田、伊丹と並ぶ「北摂三銘酒」の里としても知られる「富田(とんだ)郷」。この地の歴史は、室町時代から一向宗の「富田道場」を中心に寺内町が形成されたことに始まる。酒造りに適した条件が揃い、盛んに酒造業が行われ、最盛期には24の造り酒屋が存在したという。

1689(元禄2)年に刊行された貝原益軒の『南遊紀行』には「富田。道ばたにはあらず。道の東二十町計に有。町広し。茨木より狭し。酒家多し。紅屋とて大百姓あり。其宅瓦屋甍を並べ作り重て大なること山の如し。目を驚かす。未だかかる大農を見ず」とも記されている。ここに登場する「紅屋」は「関ケ原の戦い」の際、徳川家に協力した功績により、特権的な酒造株が認められたともいわれる。1695(元禄8)年刊行の『本朝食鑑』には、「和州南都造酒第一而、摂津伊丹、鴻池、池田、富田次之」と書かれており、富田の酒が名声を得ていたことが分かる。また、松尾芭蕉の弟子、宝井其角(たからいきかく)は「けさたんと のめやあやめの とんたさけ」という回文俳句を残している。

現在も、1822(文政5)年創業で「國乃長」の銘柄を誇る「寿酒造」と、1856(安政3)年創業の「清鶴」ブランドで知られる「清鶴酒造」の老舗二軒が、酒づくりを続けており、富田の酒の伝統を守っている。

写真の「清鶴酒造」の軒先にかかるのは「杉玉」。新酒の時期に吊るされ、緑から茶へと色が変化し、酒の熟成具合も伝えているという。



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