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宿場町・城下町などの発展

現在の高槻市内・茨木市内には「西国街道」とも呼ばれた「山崎通」が通っており、沿道には宿場町が発展。また「高槻城」「茨木城」の城下町、「総持寺」の門前町、富田の寺内町などの町も発展した。「総持寺」は「西国三十三所」の霊場でもあり、古くより多くの参拝客や巡礼者が訪れている。


「西国街道」とも呼ばれた「山崎通」

山崎~西宮間を結ぶ「山崎通」は、西国大名の参勤交代などに利用され「西国街道」とも呼ばれていた。山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽・西宮の6宿が置かれ、庶民の通行も多く、賑わっていたという。

「山崎通」の「桜井駅」は、旅に必要なものを備えた宿駅とされ、南北朝時代の軍記物語『太平記』の一場面「桜井の別れ」の舞台として知られる。写真は「楠公父子訣児之處碑(なんこうふしけつじのところひ)」。【画像は大正期】

「楠公父子訣児之處碑」は1876(明治9)年の建立で、碑の裏面には当時の駐日英国公使 ハリー・パークスの英文が刻まれている。現在は「史跡桜井駅跡史跡公園」の一画にある。 MAP __

写真は「史跡桜井駅跡史跡公園」付近の「山崎通」の様子で、左端が「楠公父子訣児之處碑」。2008(平成20)年に「史跡桜井駅跡史跡公園」に隣接して、JR東海道線(京都線)「島本駅」が開業している。

中川清秀、片桐且元らの居城「茨木城」 MAP __

現在の「茨木市立茨木小学校」の北部に、茨木氏の居城「茨木城」があった。その後、織田信長に仕えた中川清秀や、豊臣秀吉に仕えた片桐且元が城主となった。しかし、1615(慶長20)年「一国一城令」により「茨木城」は廃城された。【画像は大正期】

「茨木城」の「搦手門(からめてもん)」は城跡に近い「茨木神社」の東門として移築され現存、「茨木市立茨木小学校」には「櫓門(やぐらもん)」が復元されている。

高山右近の「高槻城」、江戸時代は永井家の居城に MAP __

「高槻城」は、1569(永禄12)年に和田惟政によって城の基礎が築かれ、1573(天正元)年、高山右近が本格的な城郭を造り上げた。江戸時代には、岡部氏を経て、高槻藩永井家の居城となっていた。明治に入り廃城、「高槻城」の跡には、1909(明治42)年に「陸軍工兵第四大隊」が置かれた。図は江戸後期の制作で、画面中央の下に描かれているのが「高槻城」。城郭の大部分が省略されているが、実際は濠に囲まれており、三層の天守を有する本丸があった。外濠の北と東には城下町が記されている。【図は1806(文化3)年】

「高槻城」の跡は「高槻市立第一中学校」「大阪府立槻の木高等学校」「城跡公園」となっており、公園内には城主だった高山右近の像がある。

「西国三十三所」の霊場「総持寺」 MAP __

平安時代、大亀に命を助けられた公卿・藤原山蔭が創建したという、『亀の恩返し』の伝承が残る「総持寺」。本尊は亀に乗った千手観音の秘仏で、年に一度、数日間御開帳が行われる。「西国三十三所」の第二十二番札所でもあり、多くの巡礼者も訪れる。【画像は大正期】

現在の門の様子。藤原山蔭は「四条流庖丁道」の創始者でもあり、毎年4月18日には「庖丁式」も行われている。


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