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戦前期の農業関連施設と街並み

大正期の立川には、広大な土地を活用した養豚場や、養蚕・農業の試験場などができた。「立川駅」は北側に出入口が設けられたため、駅前から北に伸びる「仲町通り」(現「北口大通り」)が賑わうようになった。また、駅の南にあった立川の本村方面へ行くためには線路を渡る必要があったため、駅と「諏訪通り」の「西踏切」(現「立川駅西地下道」)を結ぶ「銀座通り」沿いでも商業が発展した。


最先端の知識と技術を有した「立川養豚場」

1919(大正8)年、「三菱財閥」の創始者・岩崎弥太郎の甥、岩崎輝弥が経営する横浜の「子安農園」の分園として「立川養豚場」が誕生。最先端の知識と技術を有し、国内の豚の改良増殖や養豚知識の普及啓蒙にも大きな役割を果たした。総面積は約6万坪と広く、敷地内には運搬用のトロッコが敷かれていた。【画像は1935(昭和10)年頃】

「立川養豚場」は、1941(昭和16)年、「立川飛行場」の拡大に伴い土地が買収され、現在の神奈川県大和市へ移転。跡地には「陸軍航空廠立川支廠」が移ってきた。「国営昭和記念公園」の「水鳥の池」付近(写真)が「立川養豚場」があった場所となる。 MAP __(撮影地点)

写真は「立川養豚場」の正門。門の上に飾られている豚の像は、動物彫刻家として有名な池田勇八氏の作品。右下には運搬用のトロッコの線路が見える。【画像は1935(昭和10)年頃】

「東京府原蚕種製造所」と「東京府立農事試験場」

立川での養蚕は江戸中期頃に始まり、農家の主要な産物となった。「東京府原蚕種製造所」は1916(大正5)年に立川に設置(のちに「東京府(都)蚕業試験場」へ改称)され、試験・研究や技術指導を行い、蚕業振興の中心的役割を果たした。 MAP __【画像は大正期】

跡地は「立川市柴崎学習館」などになっており、一画にある公園には「蚕糸振興記念碑」が建立されている。

「東京府立農事試験場」は1900(明治33)年に現在の中野区中央に創設され、1924(大正13)年に立川へ移転してきた。ここでは、新しい農業技術の開発などが行われた。 MAP __【画像は昭和初期】

1949(昭和24)年に「東京都農業試験場」へ改称、2005(平成17)年に「東京都農林総合研究センター」となっている。

昭和初期の「仲町通り」 MAP __

写真は1932(昭和7)年頃に撮影された「立川駅」北口の駅前から北に延びる「仲町通り」。写真の左手前の角の建物は料亭の「塚善」があった場所で、この頃には文房具店・果実店となっていた。「太平洋戦争」中に、駅前と通りの東側(写真では右側)で建物疎開が行われた。戦後に建物疎開の跡地も含め道路が拡幅され、現在の「北口大通り」となった。【画像は1932(昭和7)年頃】

「いなげや」の創業の地 MAP __

「いなげや」は、創業者・猿渡浪蔵による立川周辺での行商に始まり、1900(明治33)年には「立川駅」北口の駅前(のちの「銀座通り」沿い)に「稲毛屋魚店」を開いた。屋号は、出身地である「稲毛庄」(現・東京都稲城市付近)一帯を鎌倉時代に統治していた豪族・稲毛三郎重成にあやかって命名された。写真は1930(昭和5)年の撮影。【画像は1930(昭和5)年】

終戦直前に建物疎開の区域に指定されたが、建物の取り壊し前に終戦を迎えた。1948(昭和23)年に株式会社となり、全国から仕入れを行う人気の店へと成長。写真は、1950年代の店舗の様子。1956(昭和31)年、セルフサービス方式を採用し、都下で最初のスーパーマーケットとなった。【画像は1950年代】

1964(昭和39)年1月、「立川駅」の国鉄(現・JR)青梅線ホームで普通電車にガソリンを満載した米軍専用のタンク車が衝突・炎上する「立川駅タンク車衝突事故」が発生。「銀座通り」一帯は延焼の被害に遭ったが、「いなげや」は被害を免れたため、当時、巷では逆さ読みで『いなげや、やけない』といわれたという。写真奥は、焼失した商店の跡地に建設された防災建築共同ビルの「第一デパート」で、1966(昭和41)年の開業時の撮影。手前は被害を免れた「いなげや」の店舗。 MAP __(第一デパート)【画像は1966(昭和41)年】

「第一デパート」周辺は再開発が行われ、2016(平成28)年に「立川タクロス」(写真右の高層ビル)が完成した。この地で創業した「いなげや」は国内有数のスーパーマーケットチェーンへと成長。現在、創業の地付近には系列のドラッグストア「ウェルパーク 薬局立川北口店」(写真左下)がある。


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