所沢から移駐してきた「陸軍航空本部技術部」の正門(画像は昭和初期)。跡地は、「国営昭和記念公園」の「第2サークル」付近となる。
MAP __
1922(大正11)年、帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として「立川飛行場」が開設され、前年に岐阜県各務ヶ原(かがみがはら)で編成された「航空第五大隊」が移駐してきた。同年に「飛行第五大隊」へ改称され、1925(大正14)年に「飛行第五連隊」へ昇格した。
1923(大正12)年の「関東大震災」で、現在の江東区深川にあった「洲崎飛行場」が使えなくなり、同年「朝日新聞社 計画部」(1926(大正15)年より「航空部」)が「立川飛行場」の西側へ移転。また、同年に「日本飛行学校」の練習場が開設されるなど民間の飛行場としても利用されるようになった。昭和初期には外国の有名な飛行家も来日したことから立川は世界的に有名になり、『空の都』とも呼ばれた。1929(昭和4)年には「東京飛行場」となり「日本航空輸送」による日本最初の定期航空が運行された。しかし、1931(昭和6)年に羽田に飛行場が開港(「東京飛行場」の名称も移転)すると、民間飛行場としての役目を譲り、「立川飛行場」は陸軍専用となり、立川の街は『軍都』として発展した。
1938(昭和13)年、「飛行第五連隊」は改編により「飛行第五戦隊」となり、同年中に千葉県の柏へ移転、翌年、跡地に「陸軍航空技術学校」が移転してきた。
1928(昭和3)年に「陸軍航空本部技術部」が所沢から移駐(1935(昭和10)年に「陸軍航空技術研究所」に昇格独立)、1935(昭和10)年には「陸軍航空廠」設立、1940(昭和15)年「陸軍航空工廠」設立と、「立川飛行場」周辺には陸軍の研究所や工場が立地するようになった。また、民間の会社としては「石川島飛行機製作所」(1936(昭和11)年に「立川飛行機」へ改称)が1930(昭和5)年に立川へ移転、1937(昭和12)年には「立川飛行場」の西(現「昭島駅」前)に「昭和飛行機」も設立された。