徳川家康の江戸入府以降、運送を担う「伝馬役」が暮らす地区は「江戸城」内に置かれたが、1606(慶長11)年に移転となり、日本橋の北側には大伝馬町が開かれた。大伝馬町は、五街道のうちの二つ、「日光・奥州道中」が町を貫く陸運の拠点でもあり、次第に問屋や商店が立地し、商業地として賑わいを見せるようになった。特に、大伝馬町一丁目(現・日本橋本町二・三丁目)には、主に伊勢・松阪出身の商人が経営する木綿問屋が集まり、「木綿店」とも呼ばれる問屋街として発展した。図は1843(天保14)年~1847(弘化4)年に描かれた、歌川広重の『東都大伝馬街繁栄之図』。中央の道が「日光・奥州道中」で、道沿いに木綿問屋が軒を連ねている。右奥付近に描かれている店は1653(承応2)年創業の「小津屋」で、当時は紙・木綿の問屋であった。享保年間頃から呉服店も木綿問屋に進出するようになり、1805(文化2)年には尾張出身の「伊藤屋(松坂屋)」(図では右から3番目の店舗)も出店している。
江戸期、水陸の交通の要衝であった日本橋は、問屋街としても発展した。特に「日光・奥州道中」沿いは、繊維、薬などの問屋街が発展し、その歴史は現在に至るまで引き継がれている。古くから木綿を中心に扱う商人であった「伊勢商人」は、江戸でも多くの木綿問屋を開き、大伝馬町には「木綿店(もめんだな)」とも呼ばれる問屋街が形成された。