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呉服店から百貨店へ

商業地としても発展した日本橋の中でも、特に駿河町の「越後屋呉服店」、通一丁目「白木屋呉服店」、大伝馬町の「大丸屋呉服店」は『江戸三大呉服店』と呼ばれる、江戸を代表する呉服店となり、明治期以降、それぞれ百貨店へ発展、「三越」「白木屋」「大丸」(東京からは明治期に一度撤退)となった。明治期には京都の「髙島屋」も東京に進出、1933(昭和8)年に現在地に百貨店を開業した。


「白木屋呉服店」から発展した百貨店「白木屋」MAP __

「日本橋」の南詰から延びる江戸のメインストリート、通一丁目。現在の「中央通り」となる。江戸随一の賑わいを見せるこの界隈の地価は、当時日本でもトップクラスだったという。図は幕末期の1858(安政5)年に歌川広重が描いた『名所江戸百景 日本橋通一丁目略図』。右に描かれている店舗は「白木屋呉服店」。「白木屋」は、江戸前期の慶安年間、京都で材木商として創業、1662(寛文2)年に江戸に出て通二丁目で小間物商として開店、1665(寛文5)年に通一丁目へ移転した。その後、呉服も扱うようになり、『江戸三大呉服店』の一つに数えられる大店にまで成長した。【図は1858(安政5)年】

「白木屋呉服店」は、1903(明治36)年に和洋折衷の店舗を建設、商品を陳列販売する百貨店となった。写真は1911(明治44)年に増築した際の「白木屋呉服店」。この建物は「関東大震災」で焼失した。【画像は1911(明治44)年】

写真は震災復興後、1928(昭和3)年に再建、1931(昭和6)年に全館オープンとなった建物で、店名は呉服店を外し「白木屋」となった。全館オープンの翌年となる1932(昭和7)年には、日本初の高層建築物火災で死者14人の惨事となった「白木屋大火」が発生した。戦後は「東横百貨店」との合併を経て、1967(昭和42)年に「東急百貨店 日本橋店」となり、1999(平成11)年に閉店した。【画像は昭和戦前期】

「東急百貨店 日本橋店」の跡地には2004(平成16)年、「コレド日本橋」がオープンした。

江戸前期頃、「日本橋」周辺の井戸は塩分を含んでおり、飲料に適さなかったが、1711(正徳元)年、「白木屋」の二代目が店内に井戸を掘削したところ、観音像が掘り出されたのちに良水を得ることができた。周辺住民のほか、諸大名も汲み取り利用し、「白木名水」と呼ばれるようになった。明治期以降も、「白木屋呉服店」の店内に残され、1918(大正7)年に「白木屋の井戸」として東京市の史跡に指定された。写真は1922(大正11)年頃の「白木屋」店内の「白木屋の井戸」。【画像は1922(大正11)年頃】

「白木屋の井戸」は震災後・戦後も「白木屋」の店内に残され、1952(昭和27)年に「名水白木屋の井戸」として東京都の史跡、1955(昭和30)年に東京都の旧跡に指定された。井戸の掘削時に出てきた観音像は「白木観音」として屋上に祀られていた。「東急百貨店 日本橋店」の閉店により「白木屋の井戸」は失われ、「白木観音」は「浅草寺」の「淡島堂」へ遷座された。閉店後、「名水白木屋の井戸」の碑は、「日本橋交差点」の角に設置されたのち、2004(平成16)年に「コレド日本橋」の「アネックス広場」内へ移設された。さらに2020(令和2)年、「日本橋一丁目中地区」の再開発に伴い、かつての「白木屋」の敷地内でもある、向かい側の「コレド日本橋」の敷地内に再移設されている。写真は2020(令和2)年の移設前、「アネックス広場」内にあったときの撮影。
MAP __(碑の場所)【画像は2020(令和2)年】

呉服店から日本初の百貨店「日本橋三越」へ MAP __

伊勢松坂出身の三井高利(たかとし)は1673(延宝元)年、当時、江戸随一の商業地で、呉服店街でもあった、本町一丁目(現・日本橋本石町、現在の「日本銀行」のあたり)に「三井越後屋呉服店」を開業した。「越後屋」の由来は、武士だった高利の祖父が「越後守」を名乗っていたことによる。「店前(たなさき)売り」、「現銀(金)掛け値なし」、反物の「切り売り」といった独自の販売方法によって繁盛するようになった。また、商品の仕入れなどに便利な京都にも仕入れ店を開き、当時の商人にとって理想とされた「江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)」の形で商いを伸ばしていった。しかし、これまでの慣習を破った新商法は、同業者から反感を持たれ、営業妨害を受けるように。このため、1682(天和2)年に隣町の駿河町(現・日本橋室町二丁目)へ店を移転させた。この翌年には「越後屋三井両替店」(現「三井住友銀行」の前身)を開店、幕府の「御用為替方」も務めるようになり、両替商としても成長していった。

図は幕末期の1856(安政3)年、歌川広重が描いた『名所江戸百景 す留賀てふ』。通りの両側に「越後屋呉服店」の店舗を構えていた。現在は左側が「日本橋三越本店」、右側が「三井本館」となる。【図は1856(安政3)年】

明治期に入り、日本の近代化が進む中、呉服業は衰退を見せた。三井家は呉服業を分離独立させるため、新たに三越家を興すこととし、1874(明治7)年から三越家の経営となった。1886(明治19)年には洋服部も新設するなど、洋服販売にも参入した。1893(明治26)年、再び三井家の事業となり「三井呉服店」と改称、1895(明治28)年からは、ショーケースでの陳列が始められるなど、近代化が図られた。1904(明治37)年、経営は再び分離され、株式会社化した上で「三越呉服店」となった。この年、新聞広告に「デパートメントストア宣言」を掲載、「日本初の百貨店」として新たな道を歩み始めた。画像は、明治中期の様子で、店舗に「祝捷(しゅくしょう)」と掲げられているので、1894(明治27)年の「日清戦争」中の撮影と思われる。【画像は明治中期】

1914(大正3)年、「三越呉服店 本店」はルネッサンス式鉄筋5階建ての新店舗となり、日本初のエスカレーターのほか、エレベーター、スプリンクラー、全館暖房などの最新設備が設置された。1923(大正12)年の「関東大震災」の時、一帯で発生した火災で内部を類焼したが、翌月には営業を再開。1927(昭和2)年に本店の改修・増築工事が完了、翌年、店名を正式に「三越」へ改称した。写真は昭和戦前期、建物の南西側からの撮影。【画像は昭和戦前期】

「日本橋三越本店」の建物は、1999(平成11)年「東京都歴史的建造物」に選定された。写真は北東側からの撮影。

昭和初期に日本橋に進出した「髙島屋」 MAP __

「髙島屋」は1831(天保2)年、初代・飯田新七が京都で古着木綿商を開いたことに始まる。屋号は義父の出身地、近江の高島郡(現・高島市)から採られた。1855(安政2)年から呉服商となり、明治期には貿易にも参入し、1900(明治33)年に東京へ進出。1933(昭和8)年、現在地に百貨店「髙島屋 東京店」を開店した。【画像は昭和戦前】

2009(平成21)年、「髙島屋 東京店」の建物は、百貨店建築としては初めて、国の重要文化財に指定された。2012(平成24)年に「東京店」から「日本橋店」へ改称、2014(平成26)年より一帯の再開発が行われ、2018(平成30)年、4館からなる「日本橋高島屋S.C.」が開業した。


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