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「町田」を支える原動力、商店街の賑わい

「二・六の市」や『絹の道』によって築かれた、商業地・町田。「太平洋戦争」や駅前再開発といった時代の流れの中で、街は大きく変化しながらも、発展を続けている。


戦後の再興は早かった町田の商業地 MAP __(撮影地点)

1944(昭和19)年、激化する「太平洋戦争」の中で町田の「二・六の市」は360余年の歴史に幕を閉じた。終戦後は、いくつかの店舗がまばらに営業する程度となったが、町田は戦災を免れたこともあり、戦後の商業の再興は早かったという。写真は1945(昭和20)年頃の原町田の様子。【画像は1945(昭和20)年頃】

戦中期を乗り越えてきた商店の中には、今なお町田の暮らしを支えている店もある。

市民主導で行われた「みんなの祭り・23万人の個展」 MAP __

1973(昭和48)年9月23日、町田で初となる市民祭「みんなの祭り・23万人の個展」が開催された。これは「市民どうしの交流」と「ひとりひとりが祭りの担い手に」という趣旨で名付けられたもの。子どもから大人まで進んで出店し、盛り上がりを見せた。会場は「栄通り商店会」で、12万人の人出で賑わった。祭りの名称にある「23万人」とは当時の町田市の人口で、翌年は「24万人の個展」と題されるほど、人口が増加を見せていた時代であった。【画像は1973(昭和48)年】

現在の人口は約43万人で東京都の市町村の中では、八王子市に次いで二番目に多い自治体となっている。写真は現在の「栄通り商店会」の同地点付近からの撮影。奥が原町田の中心部となる。

戦後復興期の催事チラシに描かれた「原町田商店街」

1950(昭和25)年、町田市内の7商店会が「町田市商店会連合会」を結成。商店街イベントを積極的に開催し買い物客を楽しませた。当時のチラシに描かれた商店街マップを見ると、現在も営業を続けている店舗がいくつか見受けられる。本ページでも紹介した「富澤商店」や「柾屋商店」「柿島屋」「小林洋文堂」(「柾屋商店」と「小林洋文堂」は移転前の場所)のほか、「新宿屋ホテル」や「久美堂書店」「家具の大正堂」「中島文具店」「菓舗 中野屋」「守屋精肉店」(店舗名はすべて現在の名称)など、町田市民にとってなじみ深い店名も多く記されている。「吉川百貨店」の跡地は現在「ぽっぽ町田(町田まちづくり公社ビル)」となっている。
MAP __(ぽっぽ町田)【図は1950(昭和25)年】


『小田急電車 沿線案内』に見る「町田」と「小田急」

『小田急電車 沿線案内』の一部

『小田急電車 沿線案内』の一部【図は昭和初期】

図は1939(昭和14)年発行『小田急電車 沿線案内』の町田付近を拡大したもの。「新原町田駅」は、現在の小田急「町田駅」にあたる。「新原町田駅」を通る黒い線は省線(のちの国鉄、現・JR)横浜線で、当時少し離れた場所にあった「原町田駅」は省略されている。

「新原町田駅」のほか、「玉川学園前駅」と「鶴川駅」が現在の町田市域内となる。「玉川学園前駅」の設置の経緯はこちらで紹介している。「鶴川駅」の駅前に記載されている「能ヶ谷ノ灸」については、『小田急電車 沿線案内』の裏面に『駅前に灸治所あり、(中略)「能ヶ谷灸」の名高し』と記載がある。1938(昭和13)年発行の『全国名灸秘伝集』(帝国鍼灸医報社刊)には『小田原急行鉄道の鶴川駅は此の灸の為め出来たと云う』という記載もある。当時は特に有名な灸治所で、地元では「お灸殿」とも呼ばれた。現在、跡地の庭園は町田市が「香山(かごやま)緑地」として、2024年度の開園を目指し整備を進めている。
MAP __(香山緑地)

当時は「小田急小田原線」ではなく、「小田急電車」「小田原急行電車」「小田急本線」などと呼ばれることが一般的であった。「小田原線」と一般的に呼称されるようになったのは、この案内の発行より3年後の1942(昭和17)年。戦時統制により、東京急行電鉄と合併(いわゆる「大東急」)となった際、東急の他路線と区別するため、「東急小田原線」と呼ばれるようになった。戦後の1948(昭和23)年、「大東急」は解体となり、「小田原急行電鉄」として再発足となったが、「小田原線」の名称は引き続き利用されている。



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