「町田商工会議所」の近くに建てられている「二・六の市」の碑。 MAP __
原町田村は、安土桃山時代に本町田村から分村となった。この時、本町田で月に6回開かれていた六斎市の権利が争われたのち分けられることとなり、原町田では月に3回の三斎市「二の市」(毎月2のつく日に立つ市)が開かれるようになった。江戸後期になると原町田の発展にともない六斎市「二・六の市」となった。市では炭、薪、蚕糸、畑作物、衣料、農具などが扱われたという。
幕末期・明治期になると、八王子から原町田を経て「横浜港」を結ぶ『絹の道』に繭や生糸を運ぶ人が往来するようになった。当時の運送手段は馬や荷車であり、横浜で生糸を降ろした帰りには乾物などの保存しやすい海産物や肥料(干鰯)、舶来品などを仕入れて『絹の道』を戻った。原町田の「二・六の市」では横浜で仕入れた商品も販売されるようになり、「市」はますます賑わったという。
1908(明治41)年に横浜鉄道(現・JR横浜線)が開通すると、「市」の日以外にも人が多く訪れるようになり、乾物・呉服・洋品・道具などの店も開かれ、賑わう商業地となった。
現在でも「町田駅」周辺には、「柾屋商店」など明治期~大正期創業の乾物店が数店残るほか、明治期創業の呉服店・茶道具店・旅館(現在はホテル)をはじめ、昭和初期までに開業した商店も多数残っており、商業地としての伝統が感じられる。その中には、幾度かの大火や道路の拡幅、地域の再開発などを経てもなお、創業当時の場所で営業を続ける店も見られる。また、移転や廃業している場合でも、ビル名に昔の屋号を残している建物も多くあり、商業地としての歴史の連続性が感じられる街となっている。