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「二・六の市」から発展した商業地

「二・六の市」からの伝統を持つ町田の商業地には、長い歴史を誇る老舗も多く、「柿島屋」や「富澤商店」などが現在も営業を続けている。ここでは、「原町田商店街」の老舗・名店について紹介する。


馬の仲買人として古くから『絹の道』を支えた「柿島屋」

鉄道開通以前の『絹の道』沿いでは、荷の運送に馬を利用していた。1884(明治17)年創業の「柿島屋」は、この運送用の馬の仲買商人となった。その後、行き交う人々向けに馬肉料理を提供し評判となったことが、現在の馬肉専門店としての基礎となっている。写真は1965(昭和40)年頃の撮影。
MAP __【画像は1965(昭和40)年頃】

創業時の「柿島屋」は、八王子と瀬谷を結ぶ馬車の立場(馬車駅)前に位置しており、のちに小田急線が開通し駅が設置されると、その駅前となった。現在は「柿島ビル」となっており、コーヒーショップが入っている。

創業時の「柿島屋」は、八王子と瀬谷を結ぶ馬車の立場(馬車駅)前に位置していた(現在の小田急「町田駅」前)。現在の「柿島屋」は移転したため、創業時とは異なる場所にある。
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町田最古の老舗乾物店「柾屋商店」 MAP __

現在、町田にある乾物店の中で最も長い歴史を持つ「柾屋商店」は、1895(明治28)年の創業。海産物や山の幸など遠方の作物を乾物として取り扱うことで、古くから町田の人々の食生活を支えてきた。

大正期創業の「富澤商店」 MAP __

1919(大正8)年創業の「富澤商店」。開業当時は干物や乾物の取り扱いが中心だったが、時代の流れに合わせて、現在はパン作りやお菓子作りの材料を中心に取り扱っている。創業以来、原材料の調達から販売まで一貫して自社体制を続け、徹底した品質管理に努めている。1986(昭和61)年より百貨店や商業施設内への出店を開始、現在では北海道から九州まで多くの直営店を出店しており、全国的に知られる企業となっている。

「河原本店」前の街並み MAP __

写真は昭和初期の「町田街道」の原町田。「河原本店」は大正期から続く老舗乾物店で、今も当時から場所を変えずに営業している。左端の「豊田屋呉服店」は近年まで営業していた。【画像は昭和初期】

写真は現在の原町田四丁目付近。


『絹の道』で発展し、現在に続く商業地

「二・六の市」の碑

「町田商工会議所」の近くに建てられている「二・六の市」の碑。 MAP __

原町田村は、安土桃山時代に本町田村から分村となった。この時、本町田で月に6回開かれていた六斎市の権利が争われたのち分けられることとなり、原町田では月に3回の三斎市「二の市」(毎月2のつく日に立つ市)が開かれるようになった。江戸後期になると原町田の発展にともない六斎市「二・六の市」となった。市では炭、薪、蚕糸、畑作物、衣料、農具などが扱われたという。

幕末期・明治期になると、八王子から原町田を経て「横浜港」を結ぶ『絹の道』に繭や生糸を運ぶ人が往来するようになった。当時の運送手段は馬や荷車であり、横浜で生糸を降ろした帰りには乾物などの保存しやすい海産物や肥料(干鰯)、舶来品などを仕入れて『絹の道』を戻った。原町田の「二・六の市」では横浜で仕入れた商品も販売されるようになり、「市」はますます賑わったという。

1908(明治41)年に横浜鉄道(現・JR横浜線)が開通すると、「市」の日以外にも人が多く訪れるようになり、乾物・呉服・洋品・道具などの店も開かれ、賑わう商業地となった。

現在でも「町田駅」周辺には、「柾屋商店」など明治期~大正期創業の乾物店が数店残るほか、明治期創業の呉服店・茶道具店・旅館(現在はホテル)をはじめ、昭和初期までに開業した商店も多数残っており、商業地としての伝統が感じられる。その中には、幾度かの大火や道路の拡幅、地域の再開発などを経てもなお、創業当時の場所で営業を続ける店も見られる。また、移転や廃業している場合でも、ビル名に昔の屋号を残している建物も多くあり、商業地としての歴史の連続性が感じられる街となっている。



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