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明治期の八王子

1889(明治22)年、八王子に甲武鉄道が開通。文明開化の象徴であった鉄道の開通とともに八王子の近代化が始まった。近代化が進められる中、当時の新しい建材である煉瓦の工場も作られた。明治期には、のちに「富士森公園」となる広場や、高等女学校の創立など、現在につながる多くの施設も誕生している。


甲武鉄道の開通

甲武鉄道は1889(明治22)年4月に新宿~立川間、同年8月に立川~八王子間が開通した。当初の「八王子駅」は、現在の駅より北東にあたる「東京たま未来メッセ(東京都立多摩産業交流センター)」付近にあった。 MAP __【図は1890(明治23)年頃】

1901(明治34)年に官設鉄道として、八王子~上野原間が開業。同時に、「八王子駅」も現在の駅付近に移転している。写真は大正期の「八王子駅」(二代目)。「浅川駅」(現「高尾駅」)も同時に開業した。甲武鉄道は1906(明治39)年に「鉄道国有法」により国有化、1909(明治42)年の「国有鉄道線路名称」公布により路線名が中央東線と制定され、1911(明治44)年の「名古屋駅」までの全通により中央本線となった。【画像は大正期】

二代目の「八王子駅」の場所は、現駅舎より若干西寄りで、現在は駐車場などになっている。 MAP __

明治期に始まる「富士森公園」

台町にある「浅間神社」は、江戸初期の徳川幕府成立も間もない1612(慶長17)年、代官頭の大久保長安が勧請、富士塚を築いたのが起源で、「富士森」の地名の由来となっている。1896(明治29)年、民間人により境内に「日清戦争」の忠魂碑が建設され、その後も種々の記念碑が建立。大正期から昭和戦前期にかけて、有志により植栽や園路などが整備され、様々な行事も開催される場所となリ、「富士森公園」と呼ばれるようになった。写真は1926(大正15)年に整備された運動場(現「富士森公園陸上競技場」)。 MAP __【画像は昭和戦前期】

1946(昭和21)年より、戦災復興都市計画事業の一環で八王子市の公園「富士森公園」として工事が進められ、野球場などが整備された。写真は現在の「富士森公園陸上競技場」。2018(平成30)年より改修工事が行われ、2020(令和2)年にリニューアルオープン、ネーミングライツにより「東京フットボールセンター八王子富士森競技場」と呼ばれるようになった。

「大正殿」は1927(昭和2)年の大正天皇の「多摩陵」での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物。同年に下賜され「富士森公園」内に移築された。場所は現在の「浅間神社」拝殿の北西側平坦地であったといわれている。写真は昭和戦前期の撮影。【画像は昭和戦前期】

「大正殿」は1953(昭和28)年に「浅間神社」の拝殿として富士塚の前に再移築され、現在に至っている。 MAP __

鉄道の延伸と煉瓦工場

「八王子駅」以西の官設鉄道工事において、当時新しい建材であった煉瓦の需要を見越し「八王子煉瓦製造会社」が設立され、1897(明治30)年に由井村西長沼(現・八王子市長沼町)の工場が操業を開始した。工場から甲武鉄道までは引込線が引かれ燃料や煉瓦が運ばれたほか、工場南側の「多摩丘陵」の一画で採取された原料となる粘土はトロッコで運ばれた。1907(明治40)年に横浜の「関東煉瓦」に売却、さらに1912(明治45)年「大阪窯業」に買収され、同社の「八王子工場」となった。1923(大正12)年の「関東大震災」以降は耐震性の低い煉瓦に代わりコンクリート建築が主流となり、この工場では「甲州街道」の歩道部分などで使用された舗道煉瓦の製造に切り替えられたが、1932(昭和7)年の火災により閉鎖となった。 MAP __【画像は昭和初期】

現在は「大阪窯業 八王子工場」の痕跡はほとんど残っていないが、工場への引込線が京王電軌を高架で越えていた時の橋脚は見ることができる。 MAP __

現在「国道16号」沿いで営業している喫茶店「Coffee Bricks」は、1918(大正7)年に建てられた米蔵を利用している。壁に用いられている煉瓦は「大阪窯業」の工場で作られたものといわれている。 MAP __

写真は「浅川駅」(現「高尾駅」)の西、「南浅川」に架かる「甲州街道」の「両堺橋」と中央本線の「第一浅川架道橋」が交差する様子(大正期の撮影)。1901(明治34)年のこの区間の開通時から使用されている「第一浅川架道橋」でも煉瓦が使用されている。蒸気機関車は大正期に製造され、中央本線などで活躍した「9600形」と思われる。【画像は大正期】

現在の中央本線「第一浅川架道橋」のうち手前(上り線)は戦後の複線化の際に作られたもの。奥の下り線に当時の煉瓦(現在はコンクリートで補強されている)が残る。ほかにも、「高尾駅」から裏高尾町にかけての一帯では、多くの煉瓦で作られた鉄道の構造物を見ることができる。 MAP __

「東京府立第四高等女学校」の開校

横川村(現・八王子市横川町)の名主の家に生まれ「東京女子師範学校」(現「お茶の水女子大学」)で学んだ教育者、横川楳子は1891(明治24)年、女子教育向上のため「本立寺」の所有地(現・八王子市天神町内)を借り「私立八王子女学校」を設立した。しかし経営は苦しく、私財の投入や、篤志家の寄付でしのいでいた。1899(明治32)年「高等女学校令」が公布となり、1906(明治39)年に八王子町議会は府立の高等女学校の誘致を行い、1908(明治41)年、新たな校地(現在の校地)に「私立八王子女学校」を引き継ぐ形で「東京府立第四高等女学校」が開校となった。写真は大正期の校舎遠景で、現在の「南多摩中等教育学校前交差点」付近からの撮影。 MAP __(私立八王子女学校) MAP __(東京府立第四高等女学校)【画像は大正期】

戦後の新学制と共学化を経て、1950(昭和25)年に「東京都立南多摩高等学校」となり、多摩地区有数の進学校となった。2010(平成22)年に「東京都立南多摩中等教育学校」が開校となり、伝統を引き継いでいる。旧「私立八王子女学校」の校舎は楳子が寄付し、1911(明治44)年に「八王子町立図書館」となり、1923(大正12)年まで使用された。


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