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多様な性格を併せ持つ都市へ

江戸時代の宿場町から織物を中心とした商工業の街として発展した八王子。近年は産業都市、学園都市、住宅都市など、時代の変化と共に多様な性格を併せ持つ都市へ進化を続けている。


昭和30年代に造成された内陸工業団地 MAP __( 北八王子工業団地)

伝統ある織物産業の不況もあり、1957(昭和32)年の「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)による「北八王子工業団地」をはじめ、市内に工業団地などが造成され、電気機械器具製造などの大工場の誘致が進められた。写真下側の大きな工場が日野市の「日野自動車」の工場、その上にみえる住宅地が日野台、その上の道路から八王子市となり、写真中央付近の長細い建物付近が1963(昭和38)年に「北八王子工業団地」に進出した「小西六写真工業」(現「コニカミノルタ」)の八王子工場。【画像は昭和30年代後半】

写真は現在の「コニカミノルタ 東京サイト八王子」付近。このほかにも、「北八王子工業団地」には、「オリンパス」「JVCケンウッド」「カシオ計算機」などの工場・研究所や、大型の物流施設などが立地する。

国内有数の学園都市へ MAP __

1960年代、「第一次ベビーブーム」の子どもが大学進学時期を迎え、また大学進学率の上昇や都心部の地価上昇もあり、都心部にある大学の多くは、郊外へのキャンパス設置を考えるようになった。最初に八王子に新キャンパスを設置したのは、新宿に校舎があった「工学院大学」で、1963(昭和38)年に八王子校舎が開設された。その後も、多くの大学のキャンパスが八王子市内に誕生した。【画像は1963(昭和38)年】

2022(令和4)年の時点で、八王子市には21の大学等(大学・短大・高専)があり、約11万人の学生が学ぶ国内有数の学園都市となった。写真は現在の「工学院大学」。

郊外住宅地の発展 MAP __

空襲による被害や、復員による転入者もあり、八王子市の戦後の住宅不足は深刻で、昭和20年代後半以降は公営住宅の建設が進められ、昭和40年以降になると一戸建て住宅の建設も増えた。「京王帝都電鉄」は、高尾線の建設と同時に沿線の宅地を造成。「めじろ台駅」前に造成された「京王めじろ台」は、高尾線開通日でもある1967(昭和42)年10月1日に第1期573区画の販売が開始されると、即日完売になるほどの人気であった。写真は1967(昭和42)年撮影の造成中の「京王めじろ台」。【画像は1967(昭和42)年】

その後も「東急片倉台」(1974(昭和49)年)、「多摩ニュータウン 鹿島・松が谷地区」(1976(昭和51)年)、「西武北野台」(1977(昭和52)年)、「みなみ野シティ」(1997(平成9)年)など、市内各地で住宅地開発が進められ、現在では多摩地区最大の約58万人が暮らす住宅都市となっている(括弧内は入居開始年・街びらき年)。写真は現在のめじろ台の様子。一帯は閑静な住宅街となっている。



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