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「多摩陵」の造営と観光地化

1927(昭和2)年、大正天皇の陵墓が横山村に造営されることが告示されると、この地は日本中から注目を集め、「大喪の儀」以降、全国各地から参拝客が訪れるようになり交通機関の整備も進められた。


「多摩陵」の造営

大正天皇は1926(大正15)年12月25日に崩御され、翌日、元号は昭和に改められた。1927(昭和2)年1月3日、官報号外で、横山村・浅川村・元八王子村(現・八王子市)にあった御料地の一部を「武蔵陵墓地」とすること、その中の横山村内に大正天皇の陵所を置くことが、翌日の官報号外で、同年2月7日に「新宿御苑」、翌8日に陵所で「大喪の儀」が行われることが告示された。陵墓が東京に置かれたのは初めてのことであった。写真は「東浅川仮停車場」停車中の霊柩列車の試運転の様子で、「大喪の儀」では、2月8日午前1時35分着という深夜に運行された。同日、陵名は「多摩陵(たまのみささぎ)」と告示されている。 MAP __(東浅川仮停車場跡)【画像は1927(昭和2)年】

「大喪の儀」の際、「祭場殿」(写真中央の建物)から「玄宮」までの傾斜部分に、柩を運ぶための「山稜斜面軌道」(インクライン)が「鉄道省」により設置された(撤去は2月11日)。写真は練習時の様子。【画像は1927(昭和2)年】

1927(昭和2)年2月13日からは期間を区切って、翌年4月3日からは通年で一般参拝が許され、全国各地から参拝客が訪れるようになり、日本有数の観光名所となった。写真は昭和戦前期の「多摩陵」。その後、貞明皇后の「多摩東陵」、昭和天皇の「武藏野陵」(1989(昭和64)年崩御)、香淳皇后の「武藏野東陵」が造営された。 MAP __(多摩陵)【画像は昭和戦前期】

「東浅川仮停車場」は、その後も皇族専用の駅として使用されたが、1960(昭和35)年に廃止。1962(昭和37)年に市が払下げを受け、翌年、集会施設の「陵南会館」(写真)となり、1964(昭和39)年の「東京オリンピック」自転車競技開催の際には事務局や歓迎行事などに使用された。1990(平成2)年、爆弾テロ事件によって焼失した。【画像は1964(昭和39)年】

写真は現在の「陵南会館」跡地で、奥に中央線の電車が通過中。「陵南いちょう会館」(左の建物)や「東浅川保健福祉センター」の第2駐車場として使用されており、正面には「1964年東京オリンピック自転車競技記念碑」が建てられている。この場所に現在の「高尾駅」の駅舎が移設される予定となっている。

「多摩御陵」「高尾山」への交通機関の整備

「浅川駅」は1901(明治34)年、官設鉄道(現・JR中央本線)の開通と同時に開業。「大喪の儀」終了後の1928(昭和3)年、「新宿御苑仮停車場」の建物が「浅川駅」へ移設され二代目の駅舎となった。写真は昭和戦前期の駅前の様子で中央奥に見えるのが駅舎。「多摩御陵」「高尾山」への参拝客・観光客で賑わった。【画像は昭和戦前期】

「浅川駅」は1961(昭和36)年に「高尾駅」に改称。この歴史ある駅舎は、「高尾駅周辺整備事業」に伴い解体され、かつて「東浅川仮停車場」「陵南会館」があった場所に移築保存される予定。 MAP __

武蔵中央電気鉄道」は1930(昭和5)年に浅川駅前~高尾橋間を開通させた。写真は1935(昭和10)年頃の「高尾橋停留場」付近。1930(昭和5)年に中央本線が浅川(現・高尾)まで電化され都心から電車が直通となり、さらに翌年、京王電軌御陵線が開通したこともあり、業績は悪化。1938(昭和13)年、「京王電軌」に吸収され、横山車庫前~高尾橋間以外が廃止、翌年全線が廃止となった。MAP __【画像は昭和戦前期】

現在の「高尾橋」付近。

京王電軌御陵線は1931(昭和6)年に開業した路線で、当時の「東八王子駅」(現「京王八王子駅」)の一つ手前、「北野駅」から分岐し西へ、「山田駅」を過ぎて北西に向かい、中央本線、「甲州街道」、武蔵中央電鉄、「南浅川」を高架橋で越えて「御陵前駅」に至るものであった(昭和戦前期の鳥瞰図参照)。写真は「御陵前駅」(1937(昭和12)年「多摩御陵前駅」へ改称)。御陵線は戦局の悪化により1945(昭和20)年に休止。「多摩御陵前駅」の駅舎は「八王子大空襲」で焼失した。【画像は昭和戦前期】

「多摩御陵前駅」跡地付近。 MAP __

「南浅川」の左岸の住宅地に現在も残る御陵線の橋脚部。先に写る桜並木が「南浅川」の河川敷。北野~山田間は、1967(昭和42)年に開通した京王帝都電鉄高尾線の一部となった(山田~多摩御陵前間は1964(昭和39)年に正式に廃止)。MAP __


八王子にあった2つの競馬場

初代の競馬場時代のチラシ

初代の競馬場時代の開催を知らせるチラシ。【図は1931(昭和6)年】

初代の競馬場付近の地図

初代の競馬場は「片倉製糸紡績」の「八王子製糸所」の向かい、「野口染工場」(現存する)の南に描かれている。【図は1931(昭和6)年】

大正期、当時の小宮村中野(現・八王子市中野町・中野上町付近)では、神社の祭礼の余興として競馬が催され、多くの見物人が集まり盛況であった。1927(昭和2)年の「地方競馬規則」制定を受け「多摩八王子競馬会」が設立、翌年、初代「多摩八王子競馬場」が建設され、レースが開催された。 MAP __

二代目の「多摩八王子競馬場」のスタンド

二代目の「多摩八王子競馬場」のスタンド。【画像は1934(昭和9)年】

その後、施設が手狭になったため、1934(昭和9)年に小宮町と日野町(現・八王子市と日野市)にまたがる地に二代目となる競馬場が建設された。1939(昭和14)年、「軍馬資源保護法」施行により、多くの地方競馬場が閉場となる中、「多摩八王子競馬場」は存続し「鍛錬馬競走」が行われたが、1944(昭和19)年にはすべての開催が中止された。 MAP __

スタンド跡地付近

現在、スタンド跡地は「八王子市立高倉小学校」、コース・敷地跡地は「東京都立八王子東高等学校」「東京都立大学 日野キャンパス」「日野市立日野第四中学校」などとなっている。

戦後、競馬は再開されたが、1950(昭和25)年に「大井競馬場」が開場したため「八王子競馬場」での競走は行われなくなった。この地は、競走馬の育成・調教のための「八王子牧場」となったのち、1965(昭和40)年に千葉県の「小林牧場」に競走馬の育成機能が移され廃止となった。昭和40年代前後に八王子市部分は「高倉」、日野市部分は「平山台」の土地区画整理事業が行われたため、跡地に痕跡は見られない。



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