1630(寛永7)年、林羅山は三代将軍・徳川家光より上野忍岡に土地を与えられた。翌々年、私塾(のちに「弘文館」と呼ばれる)と孔子廟「先聖殿」が設けられ、以降、儒学の教育と、孔子やその弟子たちを祀る儀式が行われた。1690(元禄3)年、五代将軍・徳川綱吉の命により、私塾と孔子廟は、湯島へ移転。新しい孔子廟は「大成殿」と命名され、一帯は「聖堂」「湯島聖堂」とも呼ばれるようになった。同時に、移転先の東側にあった坂は、孔子の生誕地「昌平郷」にちなみ「昌平坂」と命名された。
その後、「寛政の改革」の中で、1790(寛政2)年、学問所は幕府直轄で「朱子学」を教える「昌平坂学問所」(「昌平黌(こう)」とも呼ばれた)となり、以降、幕臣・藩士などの教育が行われた。この頃から「聖堂」「湯島聖堂」は孔子廟(「大成殿」)の建物のみを指すようになった。図は江戸末期、『江戸名所図会』に描かれた「大成殿」(図内では「大聖殿」と表記)。左側に「学問所」、右下に「昌平坂」の文字が見える。