「中山道」の「浦和宿」にはじまり、県庁が置かれ行政・経済の中心地、教育施設の集積地、文化人の居住地として歴史を重ねてきた浦和。上は「関東大震災」から5年後の1928(昭和3)年に発行された地図に、当時の主要施設の概略を示したもの。
江戸期に整備された「浦和宿」の古い中心部(「玉蔵院」や本陣)付近には多くの商店が建ち並び、明治期に入るとその周りに県庁・駅・学校などが整備され、街が面的な広がりを見せている。地図の中で目立つのは、県庁付近から「別所沼」東縁にかけて広がる、すっきりと区画が整備された鹿島台の地域。1934(昭和9)年に完了した耕地整理事業の対象には鹿島台一帯も含まれており、当時は最新の住宅地であった。