明治初期、初代酒井甚四郎氏が酒の小売りと故郷・三重県の物産を販売するお店として浦和の現在地で商売を開始。仕入れ先の酒店から勧められて奈良漬の製造に着手すると、白瓜を中心にした奈良漬はたちまち評判になり、1902(明治35)年には「宮内省」(現「宮内庁」)に献納するほどまでになった。
宿場町また市場として発展してきた浦和には、その歴史を物語る老舗も残っている。現在、さいたま市では地域の特性と深い関連のある産業を『伝統産業』に位置づけ、その魅力をまちづくりに生かしている。
宿場町また市場として発展してきた浦和には、その歴史を物語る老舗も残っている。現在、さいたま市では地域の特性と深い関連のある産業を『伝統産業』に位置づけ、その魅力をまちづくりに生かしている。
明治初期の創業より五代にわたって親しまれている浦和の歴史を物語る老舗のひとつ「酒井甚四郎商店」。四代目店主(現・相談役)であり「浦和銀座誠商会」の一員として浦和のまちづくりに奔走した酒井甚四郎氏に街の変遷についてお話を伺った。
アーチが架けられ多くの人で賑わう「浦和銀座」。左手前に「平田薬局」があり、その看板に隠れながらも少しだけ見えている白い看板の店舗が「酒井甚四郎商店」。右手前に「尾張屋呉服店」が見え、その隣は現在も営業を続けている老舗のうなぎ料理店「山崎屋」。
【画像は昭和中期】
現在の三重県亀山市で生まれた初代の酒井甚四郎氏がお茶の栽培技術を指導する「茶師」として埼玉県に赴任した後、「中山道」沿いにお店を構え商売をはじめたのは明治初年代(1870年代)のこと。
『初代は商売人としてだけではなく、教育者としても優れた人だった』と語るのは、四代目の酒井甚四郎氏。従業員の健康を考えて「昼寝」を取り入れたり、時間を見つけては読み書きも教えたりと、家業に対する情熱とその人柄は140年を経た今も代々生き続けている。
時代に合わせた商品開発も伝統であり、三代目による新作の奈良漬「浦和漬」は、1934(昭和9)年に埼玉県を行幸した昭和天皇にも天覧いただいた。またそれまで量り売りで提供していた奈良漬を、「手間をかけずに食べられる」ようにと四代目が「きざみ奈良漬」として販売。その気軽さから一般家庭にも広まった。五代目甚治氏によるピリ辛の奈良漬「野菜香辛曲(こうしんきょく)」も、進化し続ける老舗の味に相応しく、浦和土産としても人気を集めている。
幼少期の街の様子について伺うと、『当時、近所に「柳川屋」という酒店があって、荷物を運ぶのに使っていたトロッコでよく遊んだのを覚えてるなぁ』と四代目。「中山道」の宿場町として整備された当時の浦和は、間口の広さに応じて賃料が決められていたため、「中山道」に面して奥行きのある町屋が一般的だった。『当時は今みたいに遊ぶものなんて無いから、トロッコに乗って友だちと動かして遊んだり、うちの蔵でかくれんぼをしたり、「須原屋」さんの店先で本を立ち読みしていると番頭さんにはたきでパタパタって叩かれたりしてね、良い時代だったなぁ』と懐かしそうに語ってくれた。
「浦和銀座」と呼ばれる商店会がいつ、どれくらいの規模で発足したか詳しい資料は残っていないものの、『戦後間もない頃に、近所のお店の若手が集まり、親睦を深めるために「調神社」でラジオ体操をしたのをよく覚えている』と甚四郎氏。かつては「歳末の大売出し」をはじめ商店会としての取り組みも積極的に行われ、賑わいのある商店会を形成してきたようだ。
街の将来についての展望を伺うと、多くを語らず『これからは個々のお店のがんばりに依るほか無い。若い世代に期待をしている』のひと言のみ。しかし、まちづくりに奔走してきた父の背中を見続けてきた五代目の甚治氏には、その言葉の真意が伝わっているようだ。『まぎれもなく今の浦和の街を作ってきたのは親父たちの世代です。さんざん反抗してきましたが、今はお店に立ってお客さまと交わす会話のキャッチボールも楽しいですし、遠出をして浦和に帰って来るとどこかホッとします』と。
数々の記憶とメッセージは親から子へ、そして会話を通じて街中へと広がる。老舗の持つ記憶と伝統は、これからも浦和の街に賑わいをもたらすことだろう。
1935(昭和10)年生まれ。「浦和食料品小売組合」の発足や、青年会議所の立ち上げに携わるほか、「浦和銀座誠商会」五代目理事長も務める。
【取材は2016(平成28)年】