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大正期・昭和初期の品川区域

大正期に入ると、(旧)品川区となる品川町・大井町・大崎町は、工業地としてさらに発展した。また、大井町や平塚村(のちの荏原町)の「武蔵野台地」上は、「関東大震災」前後から、東京西郊の住宅地としても発展をはじめた。特に震災後は、一帯の人口が急増し、学校、病院をはじめ、さまざまな生活施設の整備も進んだ。「立会川」では昭和初期に治水のための河川改修も行われた。


「ゼームス坂病院」と高村光太郎

「ゼームス坂病院」は、1923(大正12)年に開院した精神病院。1935(昭和10)年、彫刻家・高村光太郎の妻、智恵子が入院、1938(昭和13)年に肺結核のためここで死去した。図は1924(大正13)年発行の地図。右が北となり、中央上に「ゼームス坂病院」の記載がある。終戦直前の1945(昭和20)年、「東芝大井病院」として改修され再開院。戦後の混乱期において、「東芝」の従業員と地域のための医療に貢献し、1964(昭和39)年に移転し「東芝中央病院」となった。【図は1924(大正13)年発行】

「ゼームス坂病院」の跡地には、1995(平成7)年に「レモン哀歌の碑」(写真)が建立された。「レモン哀歌」は智恵子の臨終を詠んだ高村光太郎の詩で、1941(昭和16)年に出版された詩集『智恵子抄』に収められている。
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「ゼームス坂」の名前の由来は、江戸末期に来日し、明治期に創設期の「日本海軍」の発展に貢献したイギリス人・J・M・ゼームス(ジェームス)に因む。1887(明治20)年頃、この坂の途中に邸宅を構え、邸宅前の坂をなだらかに改修したことから「ゼームス坂」と呼ばれるようになったといわれる。「ゼームス邸」はのちの「ゼームス坂病院」の向かい付近にあったが、死後、邸宅の跡地は「三越」に売却され、1928(昭和3)年に「品川少年寮」が完成、洋館は鵠沼にあった「三越」の保養所に移築された。1937(昭和12)年、少年寮は「三越」の縫製工場に転用され、戦後も「三越縫製」の工場として使用されたのち、1983(昭和58)年に「三越ゼームス坂マンション」に建て替えられた。写真はマンションの前に設置されている「ゼームス邸跡地」の碑。
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「立会尋常高等小学校」の開校 MAP __

1912(大正元)年、東海道本線の東側(のちの「大井町駅」東口駅前)にあった「東京製絨 品川工場」は売却され、「日本毛織 東京工場」となり、「関東大震災」後は、芝で被災した「鉄道省」の「被服工場」が、1926(大正15)年まで暫定的に利用した。大井町では人口の急増があったことから、町はこの跡地を買収、1926(大正15)年に「立会尋常高等小学校」(現「品川区立立会小学校」)を開校した。【画像は1934(昭和9)年頃】

戦後、「品川区立立会小学校」となり、1951(昭和26)年頃に現在地(東大井四丁目)へ移転。「大井町駅」の駅前の跡地には「品川公会堂」が建設されることになり、1956(昭和31)年に開館した。その後、1986(昭和61)年より「品川公会堂」を含む一帯で「大井町駅東口第一地区再開発」が行われ、1989(平成元)年、「品川公会堂」跡地に「大井町再開発ビル」が竣工、「品川区立総合区民会館・きゅりあん」が開館した。

「立会川」の改修 MAP __

「立会川」の下流域では、1930(昭和5)年から1939(昭和14)年にかけて、治水のため流路を直線的にする河川改修が行われた。写真は改修中の「栄橋」付近の様子。改修後の幅員は約7mであった。【画像は昭和戦前期】

「立会川」は1969(昭和44)年から1972(昭和47)年にかけて、「月見橋」より上流が暗渠化され、下水道幹線として整備された。現在、地上部は「立会道路」や緑道となっている。写真は二葉三丁目付近の「立会道路」で、写真奥の交差点付近が「栄橋」の跡地となる。

「東京地方専売局品川工場」から「品川シーサイドフォレスト」へ MAP __

「東京府品川埋立地」は「目黒川改修工事」の附帯事業として1925(大正14)年に着工、1932(昭和7)年頃までに大部分が完成した(天王洲付近は1941(昭和16)年頃完成)。場所は天王洲・品川・鮫洲にかけての沖合で、「目黒川改修工事」の残土や「東京湾」の浚渫土などにより造成された。この埋め立てにより、約327,000坪(東京ドーム約23個分)もの土地が新たに誕生し、「警視庁自動車運転手試験場」「東京府立第八高等女学校(現・東京都立八潮高等学校)」「東京府立電機工業学校(現・東京都立産業技術高等専門学校)」など、広大な土地が求められる施設の新設・移転先となった。

「品川埋立地」で最大の敷地面積を誇った施設は「大蔵省」の外局である「専売局」の「東京地方専売局品川工場」で、約24,000坪(東京ドーム約1.7個分)を占めていた。元は「淀橋工場」として淀橋区(現・新宿区)にあったが、「関東大震災」後の復旧を契機として、「新宿駅」駅前の商業地としての発展のための要請もあったことから「品川埋立地」へ移転が決定。1935(昭和10)年に着工、1937(昭和12)年に「品川工場」として操業を開始、主に大衆向けの両切紙巻きたばこ「ゴールデンバット」を製造した。最盛期となった1940(昭和15)年の年間製造本数は75億本を超え、女性を中心に1,300名近い従業員が働いていた。写真は昭和戦前期の「東京地方専売局品川工場」で中央の門が正門、北西側からの撮影となる。【画像は昭和戦前期】

終戦間もない1946(昭和21)年、高級たばこ「ピース」、1949(昭和24)年からは「缶ピース」の製造も開始した。同年、「専売局」は独立し特殊法人「日本専売公社」となっている。その後「品川工場」は改組・民営化を経て「日本たばこ産業 品川工場」となった。1991(平成3)年、「日本たばこ産業」は工場移転と再開発の検討を開始し、2000(平成12)年に「品川シーサイドフォレスト」と命名された再開発が着工。2002(平成14)年に第1期地区が竣工、「イオン品川シーサイドショッピングセンター」とりんかい線「品川シーサイド駅」が開業となり、2005(平成17)年に第2期地区も竣工し、「品川シーサイドフォレスト」の再開発は完成となった。

昭和初期に開設された運転免許試験場

1919年(大正8年)に施行された「自動車取締令」で、自動車の運転には免許が必要になった。当初、東京における学科試験は日比谷の「警視庁 本庁舎」で、技能試験は空地のほか、日比谷付近や、「明治神宮」の「北参道」付近といった公道で行われ、20名ほどの受験生、5名ほどの合格者であったという。その後、自動車の普及とともに運転免許の取得を希望する人が急増したため専用の自動車試験場を開設することに。1928(昭和3)年、品川町の沖合にできた「東京府品川埋立地」の現・東品川三丁目付近に「警視庁自動車運転手試験場」の設置が決定したが、アクセスのための道路・橋などの工事が未完成であったため、1929(昭和4)年、暫定的に深川区(現・江東区)洲崎の埋立地に開設された。この頃の受験者数は一日平均200人になっていた。翌1930(昭和5)年、東品川の「警視庁自動車運転手試験場」が完成となり移転した。

しかし、「警視庁自動車運転手試験場」ができた場所は、当時の品川町の中心地、旧「品川宿」に近かったため騒音が問題となり、また発展の妨げになるとして、町議会や住民などが陳情、開設からわずか4年後の1934(昭和9)年、1kmほど南の鮫洲の埋め立て地へ移転した。写真は戦前期、鮫洲移転後の試験場。北側(写真外左側)に隣接して車体検査場(当時は「警視庁」の管轄)も設けられていた。
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戦後の1958(昭和33)年、「警視庁」の「自動車運転免許試験場」は府中へ移転となり、鮫洲は一旦支所になったのち、1965(昭和40)年に「鮫洲運転免許試験場」へ昇格、現在に至る。写真右手が現在の「鮫洲運転免許試験場」。北側に隣接していた車体検査場は、現在は「国土交通省」の「関東運輸局 東京運輸支局」(写真左)となっており、「品川ナンバー」の地域名は、この運輸支局の住所に由来している。

空中写真は試験場が東品川から鮫洲へ移転した後、1936(昭和11)年の撮影。写真下中央(南側)が鮫洲の「警視庁自動車運転手試験場」。写真左上(北側)には東品川時代の試験場の形状跡が見える。【画像は1936(昭和11)年】

東品川の試験場の跡地の一画には、1941(昭和16)年に「東品川公園」が開設された。現在は子どもたちが自転車などの練習に利用できる「自転車コース」も設けられている。
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