図は1879(明治12)年発行の『改正増補東亰区分新図』に描かれた「品川台場」。現在、「第三台場」はお台場の「台場公園」として保存・整備されている。【図は1879(明治12)年】
江戸末期の1853年7月(嘉永6年6月)、「ペリー艦隊」が来航し、幕府に開国を要求した。これを受け、翌月、幕府は江戸防衛のため、品川沖の海上に洋式の砲台「台場」を全11基(のちに12基に変更)建設することに。同年、「第一」「第二」「第三」の3基に着工した。翌1854年2月(嘉永7年1月)、「ペリー艦隊」が再び来航し横浜へ上陸、3月(旧暦)に「日米和親条約」が結ばれたが、幕府はその後も「台場」の建設を続け、同年7月(旧暦)に「第一」「第二」「第三」の3基が完成。また、同年4月(旧暦)に「御殿山下台場」が追加で建設されることになり、「第五」「第六」の2基とともに同年中(改元後の安政元年12月)に完成した。「第四」「第七」は着工していたが中止となり、「第八」から「第十一」は未着手で、最終的には6基が完成、2基が未完成、4基が未着手となった。現在の品川区域内には、「御殿山下台場」と未完成の「第四台場」があった。「台場」の跡地は1873(明治6)年に「海軍省」、1875(明治8)年からは「陸軍省」が管理するようになった。
1927(昭和2)年頃の「第四台場」跡地。明治期には造船所として使用された。【画像は1927(昭和2)年頃】
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「第四台場」の跡地は、1883(明治16)年に緒明(おあき)菊三郎が「陸軍省」より借り受け「緒明造船所」を開設、明治期の有力な造船所となった。菊三郎は海運業でも成功、明治後期には「日本の造船王」「日本の海運王」とも呼ばれた。
写真は「京浜運河沿緑地」から望む「天王洲アイル シーフォートスクエア」。「シーフォート」は「海の砦」の意味。
1912(大正元)年に菊三郎の婿養子の圭造に払い下げられたのち、
1925(大正14)年から1931(昭和6)年にかけて行われた「目黒川改修工事」の一環となる「東京府品川埋立地」の造成で、1929(昭和4)年より天王洲付近の河口沿岸の埋め立て(現「天王洲アイル」)も行われ、その一部となった。写真の「シーフォートスクエア」が「第四台場」の跡地となる。
「御殿山下台場」は「御殿山」を切り崩して「利田新地」の沿岸に建設された。ほかの「台場」と異なり、陸続き・五角形の形状で、154門の大砲が備えられた。周辺は昭和初期までに埋め立てられたが、現在も道路にその形状を残すほか、敷地の一部は「品川区立台場小学校」となっており、一角に石垣として使われた「真鶴石」が置かれている。