このまちアーカイブス INDEX

江戸期の品川周辺

現在の品川区域は、1889(明治22)年に誕生した品川町、大井村、大崎村、平塚村からなる。ここでは、江戸期における品川周辺の歴史の一コマを紹介する。


江戸前期、「東海道」沿いに設置された「鈴ヶ森刑場」 MAP __

江戸前期の1651(慶安4)年、「御仕置場」(処刑場)として「鈴ヶ森刑場」が大井村に設置された。通行人の多い「東海道」沿いに置くことで、見せしめによる犯罪抑止を狙ったという。「鈴ヶ森」はこの一帯の地名で、その由来は、大井村の南に隣接する不入斗(いりやまず)村(現・大田区)に「磐井神社」があり、その神宝「鈴石」から「鈴森八幡宮」とも呼ばれたことにある。1871(明治4)年に廃止されるまでに数万人が処刑されたというが、正確な数字は分かっていない。写真は明治後期~大正前期の「鈴ヶ森刑場」跡。【画像は明治後期~大正前期】

写真は現在の「鈴ヶ森刑場」跡。現在は「大経寺」の境内となっている。処刑の際に使用された台石や首洗いの井戸などが残されているほか、「南無妙法蓮華経」と刻まれた高さ3mの題目供養塔を見ることができる。

「鈴ヶ森刑場」へ向かう途中にあった「泪橋」 MAP __

「浜川橋」は「東海道」が「立会川」を渡る部分に架けられた橋。江戸時代には700mほど南に「鈴ヶ森刑場」があり、江戸から刑場へ向かう罪人や、密かに見送る親族が涙したことから「泪橋」とも呼ばれるようになったという。写真は明治後期の「浜川橋」と「立会川」。明治期の「立会川」の河口付近は、海水浴や潮干狩りなどを楽しむことができるほか、料理屋、砂風呂を持つ旅館もあるなど、遊興の地として賑わった。【画像は明治後期】

写真は現在の「浜川橋」と「立会川」で、「浜川」は「立会川」の河口付近の別名。現在の「浜川橋」は1934(昭和9)年に架け替えられたもの。

「仙台藩伊達家下屋敷」と「仙台味噌」 MAP __

1658(万治元)年に仙台藩二代藩主・伊達忠宗(ただむね、政宗の次男)は大井村(現・東大井四丁目)に2万坪余りを拝領、下屋敷とした。この年に忠宗が亡くなり、六男の綱宗は19歳で三代藩主となるが、遊興放蕩などから、翌々年に隠居を命じられ、2歳の息子・亀千代(後の綱村)に藩主を譲り、この下屋敷で一生を過ごした。五代藩主・伊達吉村の時、この敷地の大部分と上大崎村の「鯖江藩間部家下屋敷」の交換が行われ、大井村の「仙台藩伊達家下屋敷」は3千坪余りに縮小、仙台藩の江戸藩邸や江戸在勤の藩士のための食料などの集積場として使用されるように。ここで「仙台味噌」の製造も行われるようになり藩士へ供されたほか、江戸末期には江戸市中にも売り出され評判となり、下屋敷は「仙台味噌屋敷」と呼ばれるようになった。

図は1805(文化2)年に幕府が作成した『目黒筋御場絵図(めぐろすじごじょうえず)』の一部で、「松平政千代」(九代藩主・のちの周宗)とある部分が「仙台藩伊達家下屋敷」となる。【図は1805(文化2)年】

この地は「明治維新」後も引き続き「伊達伯爵邸」として使用され、戦後は1984(昭和59)年まで「仙台育英会」の学生寮が置かれた。味噌工場は1902(明治35)年に八木家(仙台市の「八木山」の開発でも知られる)に委任され、「仙台味噌醸造所」(写真右)となり、現在に至っている。写真の左の道は「旧仙台坂」と「仙台坂トンネル」。

穴子料理が名物だった鮫洲の「川崎屋」 MAP __

鮫洲の料理店「川崎屋」は江戸期より人気があった老舗。「東海道」沿いにありながら、裏手には鮫洲の海が拡がる景勝でも知られ、江戸前の穴子の蒲焼や天ぷらが名物であった。明治期には明治天皇が行幸の際、休憩に立ち寄っているほか、伊藤博文、夏目漱石など著名人・文化人も多く訪れ、各界の会合にも利用された。写真は明治後期の「川崎屋」。【画像は明治後期】

「川崎屋」は少なくとも昭和戦前期までは営業を続けていた。写真は現在の同地点の様子。中央の道路がかつての海岸線で、この道路の一本西(写真では左)の通りが「旧東海道」となる。右手にあった水面は、昭和初期の「東京府品川埋立地」の造成で品川沖一帯が埋め立てられた後も船入場(「鮫洲入江」)として残されていたが、戦後に完全に埋め立てられ、1964(昭和39)年に「鮫洲運動公園」(写真右手)が開園した。


江戸防衛のために造られた「品川台場」

『改正増補東亰区分新図』の一部

図は1879(明治12)年発行の『改正増補東亰区分新図』に描かれた「品川台場」。現在、「第三台場」はお台場の「台場公園」として保存・整備されている。【図は1879(明治12)年】

江戸末期の1853年7月(嘉永6年6月)、「ペリー艦隊」が来航し、幕府に開国を要求した。これを受け、翌月、幕府は江戸防衛のため、品川沖の海上に洋式の砲台「台場」を全11基(のちに12基に変更)建設することに。同年、「第一」「第二」「第三」の3基に着工した。翌1854年2月(嘉永7年1月)、「ペリー艦隊」が再び来航し横浜へ上陸、3月(旧暦)に「日米和親条約」が結ばれたが、幕府はその後も「台場」の建設を続け、同年7月(旧暦)に「第一」「第二」「第三」の3基が完成。また、同年4月(旧暦)に「御殿山下台場」が追加で建設されることになり、「第五」「第六」の2基とともに同年中(改元後の安政元年12月)に完成した。「第四」「第七」は着工していたが中止となり、「第八」から「第十一」は未着手で、最終的には6基が完成、2基が未完成、4基が未着手となった。現在の品川区域内には、「御殿山下台場」と未完成の「第四台場」があった。「台場」の跡地は1873(明治6)年に「海軍省」、1875(明治8)年からは「陸軍省」が管理するようになった。

「第四台場」跡地

1927(昭和2)年頃の「第四台場」跡地。明治期には造船所として使用された。【画像は1927(昭和2)年頃】
MAP __

「第四台場」の跡地は、1883(明治16)年に緒明(おあき)菊三郎が「陸軍省」より借り受け「緒明造船所」を開設、明治期の有力な造船所となった。菊三郎は海運業でも成功、明治後期には「日本の造船王」「日本の海運王」とも呼ばれた。

「天王洲アイル シーフォートスクエア」

写真は「京浜運河沿緑地」から望む「天王洲アイル シーフォートスクエア」。「シーフォート」は「海の砦」の意味。

1912(大正元)年に菊三郎の婿養子の圭造に払い下げられたのち、 1925(大正14)年から1931(昭和6)年にかけて行われた「目黒川改修工事」の一環となる「東京府品川埋立地」の造成で、1929(昭和4)年より天王洲付近の河口沿岸の埋め立て(現「天王洲アイル」)も行われ、その一部となった。写真の「シーフォートスクエア」が「第四台場」の跡地となる。

「品川区立台場小学校」

現在の「品川区立台場小学校」。
MAP __

「御殿山下台場」は「御殿山」を切り崩して「利田新地」の沿岸に建設された。ほかの「台場」と異なり、陸続き・五角形の形状で、154門の大砲が備えられた。周辺は昭和初期までに埋め立てられたが、現在も道路にその形状を残すほか、敷地の一部は「品川区立台場小学校」となっており、一角に石垣として使われた「真鶴石」が置かれている。



次のページ 下屋敷・邸宅地からの発展


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る