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下屋敷・邸宅地からの発展

現在の品川区域は、「東京(江戸)湾」沿い、「目黒川」沿いなど風光明媚な地も多く、江戸期には大名の下屋敷、明治期以降は華族・実業家などの邸宅・別邸も置かれるようになった。


「熊本藩細川家下屋敷」であった「戸越公園」

現在の「戸越公園」一帯は、細川家の分家・新田藩細川家が1662(寛文2)年に幕府から拝領、その後、1666(寛文6)年に本家・熊本藩細川家の下屋敷となった。江戸中期以降、一部は旗本の屋敷地となり、江戸後期の1806(文化3)年、細川家は浜町へ移り、跡地は松山藩松平(久松)家の屋敷に。「明治維新」後は久松家などの所有を経て、1890(明治23)年に三井家の別邸となった。1932(昭和7)年、三井家の所有地のうち、南側の庭園部分が当時の荏原町(同年より東京市荏原区、現・品川区)に寄付され、東京市は1935(昭和10)年に「戸越公園」を開園した。写真は昭和戦前期の「戸越公園」。
MAP __【画像は昭和戦前期】

「戸越公園」は1950(昭和25)年に品川区に移管された。1990(平成2)年には「冠木(かぶき)門」、1992(平成4)年には「薬医門」が公園整備の一環として建てられており、かつて、細川家の大名屋敷であったことを偲ばせる。

1898(明治31)年、三井家別邸に付属の「三井農園」が設立された。当時、最先端の設備を誇る園芸試験場で、温室が設けられ、花卉や果物などが栽培された。1934(昭和9)年に用賀へ移転、「第一園芸」へと発展した。「三井農園」の跡地は「東京都立大崎高等学校」(写真)などになっている。
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1918(大正7)年には、三井家の所有地に、日本橋から「三井家編纂室」を移転し、「三井文庫」が設立された。「三井文庫」は戦後に一旦活動が停止、跡地は「文部省」(現「文部科学省」)が購入し、1951(昭和26)年に「文部省史料館」となった。その後、改組・改称を経て2004(平成16)年に「国文学研究資料館」となり、2008(平成20)年に立川市へ移転した。跡地は2013(平成25)年に公園「文庫の森」として整備されており、園内に保存されている「旧三井文庫第二書庫」(写真、1922(大正11)年築)は、2020(令和2)年に国の登録有形文化財となった。
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伊藤博文の「恩賜館」と墓所

幕末期に長州藩士だった伊藤博文は、当初攘夷派であったがイギリス留学後に開国論者となり、長州藩を倒幕派に転じさせた。「明治維新」後、倒幕派の指導者らに認められ、政府の要職を務めるようになり、「明治憲法」の制定にも尽力。1885(明治18)年、「内閣」制度が創設されると初代の内閣総理大臣となり、その後も三度、内閣総理大臣を務めた。

明治後期~大正前期の「伊藤博文公墓所」

「伊藤博文公墓所」。【画像は明治後期~大正前期】
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1907(明治40)年、憲法制定の立役者であった伊藤博文に対し、明治天皇より元「赤坂仮皇居御会食所」(憲法審議の場であった)が下賜されることになり、伊藤博文は大井村(現・大井三丁目)に土地を購入、翌年に移築を完了。「恩賜館」と名付け、隣接して別邸も建設した。

現在の「伊藤博文公墓所」

現在の「伊藤博文公墓所」。

しかし「恩賜館」が完成した翌年の1909(明治42)年、伊藤博文は中国東北部のハルビンで、朝鮮の独立運動家・安重根(アンジュングン)に暗殺された。国葬ののち、別邸近くに設けられた「伊藤博文公墓所」に葬られた。

「伊藤博文 別邸跡」の案内板

写真は「伊藤博文 別邸跡」の案内板。
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「恩賜館」は、1918(大正7)年に遺族より「明治神宮」へ献納され「憲法記念館」となり、現在は「明治記念館本館」として利用されている。別邸は、1998(平成10)年に解体され、一部は生誕地である山口県萩市に移築・保存された。現在、跡地はマンションとなっている。

「品川区立伊藤学園」

「品川区立伊藤学園」の旧正門。
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1950(昭和25)年、「品川区立伊藤中学校」に「伊藤博文公墓所」の門柱と門扉が寄贈された。校名の「伊藤」は、当時の近隣の町名、大井伊藤町(現・西大井五丁目付近)に由来する。「品川区立伊藤学園」は「品川区立伊藤中学校」の後身となる学校で、寄贈された門は旧正門として残る。


「後藤邸」跡地にあった高級料亭「春秋園」 MAP __

昭和戦前期、「大井町駅」の西側に高級料亭「春秋園」があった。中国料理やジンギスカンを提供する料亭で、建物は旧「後藤毛織」の社長邸跡を利用していた。【画像は昭和戦前期】

「春秋園」の跡地は、現在の大井一丁目、「ホテルルートイン 品川大井町」付近となる。「春秋園」がいつまで営業していたのかは不明だが、1942(昭和17)年頃からは代議士・森田福市(広島県出身で1945(昭和20)年に原爆で被曝し逝去)の邸宅となっていた。

写真は昭和戦前期の「春秋園」の正面玄関。1932(昭和7)年1月6日、大相撲の関脇・天竜は、出羽海一門の全関取を「春秋園」(経営者は天竜の後援者であった)の食事会に呼びだし、この席で「大日本相撲協会」(以下「相撲協会」)の改革と力士の待遇改善を訴え、参加者の賛同を得て、「春秋園」に立てこもり要求をまとめ「相撲協会」に提出。しかし交渉は決裂し、1月9日に西方(「出羽海部屋」)の全関取と、複数の幕下力士が「相撲協会」から脱退。さらに、東方の力士の多くも賛同し、1月25日に脱退。最終的には関取62人中48人が脱退することとなった。脱退した力士により「新興力士団」(西方)と「革新力士団」(東方)(のちに合併して「大日本相撲連盟」)が結成され、興行は人気を博したが、その後「相撲協会」の切り崩し工作もあり分裂、天竜らは「関西角力協会」を設立するも人気は衰退し、1938(昭和13)年に「関西角力協会」は解散、ほとんどの力士が「相撲協会」に復帰した。【画像は昭和戦前期】


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