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住宅地と商業地

平塚村は「関東大震災」前後から東京西郊の住宅地として宅地の開発と鉄道の整備が進められ、1926(大正15)年に町制施行、1927(昭和2)年に改称して荏原町、1932(昭和7)年に東京市に編入され荏原区となった。人口は急増し、日常の買い物のための商店街も発達した。


ほぼ全域で耕地整理が行われた荏原区

地図は1938(昭和13)年に出版された『交通系統沿線整理地案内』に掲載された『東京市土地整理地区一覧図』で、当時の品川区・荏原区部分を切り取っている。橙色の部分が「耕地整理」(「耕地整理法」を援用した宅地開発)、緑色の部分が「土地区画整理」で、1938(昭和13)年までに行われた区域が示されている。明治期より工業地・住宅地・商業地が発展していた(旧)品川区域では「耕地整理」「土地区画整理」が実施されていない所も多いが、荏原区では、ほぼ全域で「耕地整理」が行われ、「関東大震災」前後より東京西郊の住宅地として発展した。主要駅に記されている漢数字は、「東京駅」からの当時の所要時間で、赤線が私鉄、赤破線がバス。【図は1938(昭和13)年出版】

図内の主な耕地整理地区名は下記の通り。
(旧)品川区:(10)寺ノ下共同、(11)鈴ヶ森、(32)大井町山中、(33)大井町森下権現台、(36)三ツ木、(37)品川町
荏原区:(34)下蛇窪戸越連合、(35)上蛇窪、(42)平塚第二、(43)平塚、(44)三谷、(47)小山

「洗足田園都市」の分譲

「田園都市株式会社」は1922(大正11)年6月、会社として初となる分譲地「洗足田園都市」の分譲を開始した。「洗足田園都市」は、現在の品川区・目黒区・大田区にまたがっており、「洗足駅」の東側一帯が現在の品川区域となる。また、分譲開始の翌月、「田園都市株式会社」は鉄道部門を分離し「目黒蒲田電鉄」を設立(開通は翌年)。その後、1928(昭和3)年に「田園都市株式会社」は「目黒蒲田電鉄」の一部門として再編され、「目黒蒲田電鉄 田園都市部(のちに田園都市課)」となった。写真は大正後期~昭和戦前期の「洗足田園都市」の街並み(撮影場所は不明)。【画像は大正後期~昭和戦前期】

1939(昭和14)年に「目黒蒲田電鉄」と「東京横浜電鉄」は合併し、現在は「東急電鉄」となった。写真は現在の「洗足田園都市」の「洗足いちょう通り」の街並み。
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武蔵小山の商店街

武蔵小山は、1923(大正12)年に「目黒蒲田電鉄」の目黒線(のちの東急目蒲線、現・東急目黒線)が開通・駅が設置されたことで発展。商店会も結成され賑わうようになっていった。写真は昭和戦前期の「武蔵小山駅」前から西小山方面へ延びる「小山銀座」。中央奥に「高島屋10銭ストア 小山銀座店」(1932(昭和7)年開店)が見える。「高島屋10銭ストア」より手前側は、路地の拡幅のため取り壊され、1934(昭和9)年に都市計画道(「改正道路」と呼ばれた)が開通した。
MAP __【画像は1932(昭和7)年~1934(昭和9)年】

武蔵小山の商店街は「太平洋戦争」の建物疎開で大部分が取り壊されたほか、空襲でも焼失。終戦後、跡地にはヤミ市バラックの店舗が立地し再び賑わうようになり、1947(昭和22)年、「武蔵小山商店街」が結成され、1985(昭和60)年に「パルム」が愛称となった。写真は現在の「銀座通り」で「パルムG」と呼ばれている。この先が「武蔵小山駅」となる。手前を左右に通る道がかつて「改正道路」と呼ばれた「補助26号線」。

写真は1932(昭和7)年の「小山本通り」の商店街(「武蔵小山駅」付近)。荏原町が東京市に編入され、荏原区となったことを祝賀する様子が写されている。「太平洋戦争」中の1943(昭和18)年、戦争による経済統制などで商売が難しくなり組合は解散。同年、一部の商店主やその家族1,039名が「第十三次満州興安東京荏原郷開拓団」として満州に渡った。しかし、終戦前後の満州における混乱により開拓団の多くの人が犠牲となり、満州から生還できた人数はわずか約80名であった。
MAP __【画像は1932(昭和7)年】

1956(昭和31)年に最初のアーケード(全長470m)が完成。現在では「武蔵小山駅」から「中原街道」までの約800mのアーケードがあり、東京で最長(単一の商店街としては日本一)のアーケード商店街となっている。写真は現在の「パルム」の入口付近。写真左手では「武蔵小山パルム駅前地区再開発」が行われ、2020(令和2)年に完了した。

「大井銀座」と「大井富士館」

昭和戦前期、大井町の「本町通り」は商業が発達し、商店会「本町通薄利会」は「大井銀座」とも呼ばれ賑わった(現在、東大井にある「大井銀座商店街」とは無関係)。右奥に見える大きい建物は映画館の「大井館」。
MAP __【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「大井三ツ又交差点」。「大井館」は戦災で焼失、戦後に「大井映画劇場」「大井テアトル劇場」となったのち、現在はマンション(写真中央付近)になっている。

写真は1932(昭和7)年頃、「大井町駅」の西にあった映画館「大井富士館」。この場所は1926(大正15)年の資料では「大井電気館」となっており、昭和初期に「大井富士館」へ改称されたと思われる。この当時、大井町には「大井富士館」と前掲の「大井館」のほか、「大井キネマ」「櫻館」「東郷館」「昭栄館」の6館があった。
MAP __【画像は1932(昭和7)年頃】

現在の同地点付近の様子。中央右手のビル付近が「大井富士館」の跡地となる。


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