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経済と行政の中心地

日比谷・有楽町一帯は、東京府および東京市(現・東京都)の庁舎が置かれるなど、東京の行政の中心地としても発展。また、銀行や保険会社の本社が置かれるなど、日本経済の中心地の一つとなったほか、業界団体の事務所、実業家の社交クラブなども置かれ、実業界の拠点の一つともなった。


東京府の行政の中心地

1868(慶応4/明治元)年、明治新政府は江戸府を設置し、同年、東京府に改称。その後、新政府は大和郡山藩柳沢家の上屋敷を接収し「東京府庁舎」を開設した。写真は明治前期の府庁舎。1889(明治22)年には東京市が誕生しているが、「市制特例」により市の業務は全て府が代行したため、市庁舎(市役所)は置かれなかった。
MAP __【画像は明治前期】

写真は当初の府庁舎があった場所で、現在は「千代田区立内幸町ホール」などがある。小説家・樋口一葉は、1872(明治5)年、「東京府」の構内にあった長屋で生まれており、「内幸町ホール」の前には「樋口一葉生誕地」の案内板が立てられている。

1894(明治27)年、有楽町(現・丸の内三丁目)に妻木頼黄設計による赤煉瓦2階建ての府庁舎が完成し移転。1898(明治31)年、「市制特例」が廃止され、府庁舎内に「東京市庁舎」が開かれた。写真は明治後期~大正前期の「東京府庁舎」と「東京市庁舎」。その後、昭和初期には市庁舎が4号地(晴海)へ移転独立する計画もあったが実現せず、戦時中の1943(昭和18)年に東京府と東京市が統合され、東京都が誕生した。
MAP __【画像は明治後期~大正前期】

「東京都庁舎」(旧・府庁舎として建設された赤煉瓦の建物)は、戦災で焼失。戦後、跡地に指名設計競技によって選ばれた丹下健三氏設計の都庁舎(「第一庁舎」)が建設され、1957(昭和32)年に完成した。写真は完成当初の様子。【画像は1957(昭和32)年】

都庁舎は1991(平成3)年に西新宿に移転となった。「第一庁舎」の跡地には「東京国際フォーラム」が建設され、1997(平成9)年に開館した。

「日本勧業銀行」と「宝くじ」 MAP __

1896(明治29)年、農工業向けの長期融資を行うため「日本勧業銀行法」が制定され、翌年、特殊銀行(政府系の金融機関)として「日本勧業銀行」(以下「勧銀」)が設立された。写真は妻木頼黄と武田五一の設計により、1899(明治32)年に竣工した本社社屋で、1906(明治39)年頃の撮影。「勧銀」から多くの工業会社に融資が行われたほか、全国各地での水道や農業用水の整備、耕地整理などの事業にも融資が行われた。1911(明治44)年の法律改正により、商業への融資も行われるようになった。【画像は1906(明治39)年頃】

この建物は1926(大正15)年に千葉の「谷津遊園」に移築され「楽天府」と呼ばれるようになった。1940(昭和15)年に現在の千葉市中央区長洲一丁目に移築され「千葉市役所庁舎」に。さらに1965(昭和40)年、「千葉トヨペット本社」として現在の千葉市美浜区稲毛海岸四丁目に移築・修復が完了した。1997(平成9)年に国の登録有形文化財となっている。
MAP __(千葉トヨペット本社)

写真は1930(昭和5)年頃に撮影された「勧銀」本店で、この建物は1929(昭和4)年の竣工。「勧銀」は1950(昭和25)年、「勧銀法」廃止に伴い普通銀行に転換、1971(昭和46)年、「第一銀行」と合併し「第一勧業銀行」に、さらに2002(平成14)年、「富士銀行」「日本興業銀行」と統合され「みずほ銀行」となった。【画像は1930(昭和5)年頃】

写真は2020(令和2)年撮影の「みずほ銀行内幸町本部ビル」。かつて「勧銀」の本店があった場所で、「第一勧銀」「みずほ銀行」の本店もここに置かれていたが、2014(平成26)年に大手町へ移転した。現在、この一帯では「内幸町一丁目街区開発プロジェクト(TOKYO CROSS PARK構想)」が進められており、「みずほ銀行内幸町本部ビル」も解体されている。【画像は2020(令和2)年】

「勧銀」は融資の原資を集めるため、償還時に抽選で割増金が付く債券の発行が特別に認められ、1898(明治31)年より「割増金附勧業債券」を発行した。写真は大正初期の抽選の様子。【画像は大正初期】

戦時中には「割増金附戦時報國債券」なども発行した。終戦直前の1945(昭和20)年7月には、債券ではなく純粋にくじ部分だけの商品(現在の「宝くじ」の原型)となる「第壱回 奨金附勝札」を発行。「勝札」という名称であったが、抽選日より前に敗戦を迎え、同年8月25日に抽選が行われた。「勧銀」は、同年10月の政府による「第一回 宝籤(くじ)」の発行も担い、以降、「みずほ銀行」となった現在に至るまで、「宝くじ」(現在は地方自治体が発売元)の発行を、ほぼ全て受託している。写真は左が1942(昭和17)年発行の「第四回 割増金附戦時報國債券」、右上が「第一回 奨金附勝札」、右下が1946(昭和21)年発行の「第五回 宝籤」の券面。

「警視庁」跡地が「第一生命館」へ MAP __

「明治維新」後、新政府は諸藩から兵を出させて東京府内の取締りを行った。1871(明治4)年になると「邏卒(らそつ)制度」が新たに導入され、旧薩摩藩士などからなる、3千名の邏卒が東京の治安維持にあたった。1874(明治7)年、「東京警視庁」が設置され邏卒は巡査と改称となり、庁舎は鍛冶橋の旧「津山藩松平家上屋敷」(現在の「東京駅」の南端付近)に置かれた。その後、制度や名称の変更を経て、1881(明治14)年より「警視庁」となった。明治後期になると「東京駅」建設のため日比谷へ移転することとなり、1911(明治44)年、「日比谷濠」(「内濠」の一部)沿いに写真の赤煉瓦庁舎が完成、移転した。写真は明治後期~大正前期の撮影。右の建物が「警視庁」、中央が「帝国劇場」、左奥の煉瓦の建物が「東京商業会議所」(現「東京商工会議所」)。【画像は明治後期~大正前期】

この「警視庁」の庁舎は1923(大正12)年の「関東大震災」による火災で焼失、復興時に現在の「警視庁」がある「桜田門」の付近へ移転、跡地は「第一生命保険会社」に払い下げられた。「第一生命保険会社」は1921(大正10)年竣工した京橋の「第一相互館」を本社屋としていたが、業容の拡大から、渡辺仁・松本与作の共同設計による新社屋「第一生命館」(写真)がこの地に建設され、1938(昭和13)年に竣工した。【画像は昭和戦前期】

「GHQ」に接収された日比谷一帯のビル

終戦後、「GHQ」の進駐を受け、日比谷一帯では焼け残ったビルや劇場、「日比谷公園」などが接収された。「第一生命館」は「GHQ」の庁舎、「明治生命館」は「アメリカ極東空軍司令部」、「帝国ホテル」は宿舎、「東京宝塚劇場」は駐留する兵のための劇場「アーニー・パイル劇場」、「東京會舘」は将校クラブなどに利用された。写真は1946(昭和21)年頃の撮影で、左から「東京會舘」「帝国劇場」「第一生命館」、右端が「日比谷帝国生命館」(旧「日比谷常磐(ときわ)生命ビル」)となる。【画像は1946(昭和21)年頃】

写真は現在の同地点付近からの様子。それぞれのビルが改築・高層化されている。

「第一生命館」は、終戦後、接収され「GHQ」の庁舎となり、1952(昭和27)年に返還された。【画像は1946(昭和21)年頃】

1989(平成元)年から1995(平成7)年にかけて再開発が行われ、現在は「DNタワー21」となっており、「第一生命館」は西側部分と外壁の一部が残されている。
MAP __(DNタワー21)


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