明治期に入ると、麹町・神田・日本橋など、都心部にあった広大な武家屋敷の跡地は、士族授産(武士の失業対策)も兼ねて払い下げられ、農地のほか、搾乳業のための牧場として利用された。当時、牛乳の飲用は普及していなかったが、「富国強兵」政策の下、肉食とともに推奨されるようになり、新聞などにより効用の宣伝も行われた。当初の牧場は、輸送手段の問題や保存手段が未発達だったこともあり、消費地に近い都心部に開かれていた。旧幕臣の阪川當晴は、東京の搾乳業としては最初期にあたる1870(明治3)年、赤坂で搾乳業を始めたのち、当時の麹町五番町17番地(現・千代田区一番町31番地付近)へ移転している。1875(明治8)年には「東京牛乳搾取組合」が結成され、頭取(組合長)は阪川が務めた。1878(明治11)年の統計では53頭の牛が飼われており、搾乳量も約25,000リットルと、東京では有数の規模を誇っていた。図は1885(明治18)年頃に描かれた「阪川牛乳舗」。門柱には「陸軍病院御用」の文字も描かれている。
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江戸期に、大名・旗本などの大小の屋敷も建ち並ぶ武家地だった麹町周辺。明治期を迎えると、その広い土地を活用した牧場経営・搾乳業も発展した。その後、「清水谷」には東京の市区改正(都市の改造)計画で最初期となる公園も計画・開園、飯田町には甲武鉄道の始発駅が造られるなど、都市としても徐々に発展していった。