1859(安政6)年、横浜が開港すると、高輪の「東禅寺」に「英国総領事館」が開設された。その後、「英国公使館」となるが、殺傷事件などもあり、横浜・東京の市中で移転を繰り返した。「明治維新」後、恒久的な用地を求めていた二代目公使のハリー・パークスは、1872(明治5)年に旧「江戸城」の西側となる当時の五番町(現・一番町)の、旧「七戸藩南部家上屋敷」から旧「七日市藩前田家上屋敷」にかけての一帯を借り受けた。翌年、設計ヘンリー・ボイス、施工監理トーマス・ジェームズ・ウォートルスによる赤レンガ造りの公使館建物が着工となり、1874(明治7)年に竣工。翌1875(明治8)年、この地に「英国公使館」が移転してきた。写真は明治初期の撮影。この建物は、1923(大正12)年の「関東大震災」で倒壊した。
明治期に入ると、江戸期まで番町周辺に多かった旗本の屋敷の跡地は、皇族・華族・官僚などの邸宅や学校などに利用された。また1875(明治8)年に移転してきた「英国公使館」をはじめ、外国の公館も多く置かれ、教会やミッションスクールも立地するようになり、国際色豊かな街へ発展した。現在、麹町・番町一帯にはポルトガル、ベルギー、ルクセンブルク、イスラエル、インド、ローマ法王庁などの大使館も置かれている。