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宮家の邸宅地とその後

明治初期、「明治維新」後の「東京奠都」に伴い、「京都御所」周辺に暮らしていた宮家は東京への移住が命じられ、屋敷地は新政府が用意した。麹町周辺には、伏見宮家、閑院宮(かんいんのみや)家の皇族邸が置かれたほか、明治期以降に誕生した新しい宮家の邸宅も造られた。戦後の1947(昭和22)年、「GHQ」の指令によりこれらの宮家は皇籍を離脱、広大な皇族邸の跡地は、ホテルや大規模複合施設、国の施設などになった。


「伏見宮邸」から「ホテルニューオータニ」へ MAP __

現在「ホテルニューオータニ」がある場所には、江戸初期に加藤清正の下屋敷、その後、「彦根藩井伊家中屋敷」が置かれていた。1872(明治5)年、伏見宮家は京都から東京(当初は富士見町)へ移住。1878(明治11)年、紀尾井町の「井伊家中屋敷」の跡地が、伏見宮家の賜邸地(天皇が御料地から宮家に下賜された宅地)となり、1881(明治14)年に「伏見宮邸」の日本館が完成、1891(明治24)年に片山東熊設計による洋館が完成した。写真は明治後期撮影の正門付近。伏見宮家は、南北朝時代以来の歴史があり、江戸期には「四親王家」の一つとなり、幕末期以後は久邇宮(くにのみや)家、山階宮(やましなのみや)家など11の宮家を分家している。【画像は明治後期】

「伏見宮邸」は「関東大震災」での被災後、1928(昭和3)年から翌年にかけ再建された。戦後、伏見宮家は皇籍を離脱、邸宅の跡地は「大谷財閥」の大谷米太郎が買い取り自邸とした。その後、1964(昭和39)年10月の「東京オリンピック」開催に向けての政府の依頼に応じて、この地にホテルを建設、「東京オリンピック」開催直前となる1964(昭和39)年9月に「ホテルニューオータニ」を開業した。

旧・一番町にあった皇族邸 MAP __

現在「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」がある場所一帯は、江戸前期から「火除明地(あきち)」となっていたところで、薬草園としても利用され、「明治維新」後、1876(明治9)年頃までは「開成学校」(「東京大学」の前身)の薬用植物園が置かれた。その後、皇族邸地となり、1877(明治10)年~1896(明治29)年は「閑院宮邸」、1909(明治42)年~1919(大正8)年は「久邇宮邸」、1920(大正9)年~1945(昭和20)年は「賀陽宮(かやのみや)邸」となった。

久邇宮良子女王(ながこじょおう)は、1924(大正13)年に皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と結婚、のちに香淳皇后となるが、結婚が内定した1918(大正7)年、この地にあった「久邇宮邸」内に皇太子妃教育を行う学問所「お花御殿」も建設されている。

地図は1883(明治16)年頃の様子で、中心付近が「閑院宮邸」で、その右に広がる水部が「千鳥ヶ淵」。右上に見える大きな建物で囲まれている所が「竹橋陣営」、左下付近が「英国大使館」となる。【地図は1883(明治16)年頃】

「賀陽宮邸」は「太平洋戦争」中の空襲で焼失、一帯は焼け野原となり、戦後は「宮内庁」が管理する空地となった。

「太平洋戦争」において海外の戦場で戦没した軍人・軍属は約210万人、戦火に巻き込まれて死亡した一般邦人は約30万人といわれている。終戦と共に海外から復員する人が持ち帰った遺骨、戦地から返送された遺骨も多くあったほか、1952(昭和27)年以降は、政府による遺骨の収集も開始された。翌年、身元や遺族が不明な遺骨を埋葬する墓の建設を決定、建設用地は検討の末、「賀陽宮邸」跡の空地一帯が使用されることになり、1958(昭和33)年着工、翌年「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」が開苑となった。写真は「西門」付近の様子。現在の「六角堂」付近がかつて皇族邸のあった場所となる。現在は約37万柱の遺骨が奉安されている。

「北白川宮邸」から「東京ガーデンテラス紀尾井町」へ MAP __

北白川宮家は、明治初期、伏見宮邦家親王の第十三王子智成親王により創設された宮家。「北白川宮邸」は、江戸期の「紀州徳川家上屋敷」の敷地の一部に建設され、1882(明治15)年に日本館が、1884(明治17)年に洋館(ジョサイア・コンドル設計)が完成した。洋館は当初3階建ての塔屋もあったが、1894(明治27)年の「明治東京地震」で被害を受け撤去された。写真は明治後期~大正前期撮影の赤坂見附。左上の建物が「北白川宮邸」。【画像は明治後期~大正前期】

現在の「赤坂見附交差点」付近の様子。写真左のビルが「北白川宮邸」の跡地にあたる「東京ガーデンテラス紀尾井町」。
MAP __(撮影地点)

写真は明治後期~大正前期撮影の「北白川宮邸」の入口付近。この場所は、のちに「李王邸」となった。【画像は明治後期~大正前期】

北白川宮家は1912(明治45)年に高輪南町の新邸へ移転、旧邸の建物は「宮内省」が買い上げた。その後、建物は「関東大震災」で若干の被害を受けたのち、1924(大正13)年に李王家に下賜された。李王家は、李氏朝鮮の歴代国王を出した家系で、1910(明治43)年の「日韓併合」後は日本の皇族に準ずる待遇となっていた。その後、1926(大正15)年から新しい「李王邸」の洋館の建設が旧「北白川宮邸」跡地ではじまり、1930(昭和5)年に完成、終戦まで「李王邸」として使用された。終戦後は「参議院」議長公邸などに利用されたのち、1952(昭和27)年に「西武グループ」の堤康次郎氏が買収。1955(昭和30)年、旧「李王邸」の洋館を利用し「赤坂プリンスホテル」を開業した。写真は1950年代の撮影。【画像は1950年代】

その後「赤坂プリンスホテル」は新館や40階建てのタワーの開業などで人気のホテルになった。旧「李王邸」は「赤坂プリンスホテル」の「旧館」と呼ばれるようになり、レストラン・結婚式場として利用された。しかし、「赤坂プリンスホテル」は老朽化などを理由に、2011(平成23)年に閉館。跡地は再開発され、2016(平成28)年に「東京ガーデンテラス紀尾井町」として開業となった。旧「李王邸」は2011(平成23)年に「旧李王家東京邸」として東京都指定有形文化財となり、現在は「東京ガーデンテラス紀尾井町」内で「赤坂プリンス クラシックハウス」として利用されている。

「東京ガーデンテラス紀尾井町」建設に伴い「旧李王家東京邸」の建物は、一旦、50mほど曳家で移設・仮置きされ、基礎と地下部分の工事が行われた上で、元の場所に戻された。この時、旧「北白川宮邸」洋館の煉瓦積基礎が発掘されており、現在、その一部が「赤坂プリンス クラシックハウス」の前に展示されている。


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