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川と舟運

江戸時代、川越は「新河岸川」の舟運により商業都市として発展、多くの文人墨客も川越へ訪れるなど、文化的にも影響を与えた。明治期以降、鉄道網が発達すると、舟運は徐々に衰退していった。「荒川」「入間川」「新河岸川」「伊佐沼」などでは、治水や農業用水としての利水を目的とした改修が行われ、現在の水の流れや景観が誕生した。


「新河岸川」の舟運

江戸初期までの川越の外港は、台地の東側にある「入間川」の「老袋河岸」などが使われていたが、城下町との間には低湿地帯が拡がっており重量物の運搬などには不便であった。1638(寛永15)年、「寛永の川越大火」で「仙波東照宮」が焼失すると、その再建の資材は江戸から「内川」で運ばれ、寺尾付近(のちの「寺尾河岸」)で陸揚げされた。1647(正保4)年、川越藩主が松平信綱の時に「内川」の河道や河岸「新河岸」(のちの「上新河岸」)の整備が行われたことで舟運が盛んになり、「新河岸川」と呼ばれるようになった。その後、「扇河岸」などの河岸も開かれ、川越に近い上流から順に「扇河岸」「上新河岸」「牛子河岸」「下新河岸」「寺尾河岸」が「五河岸」と総称されるようになった。

川越は、「新河岸川」の整備により江戸までの舟運の起点となったことで、各地方や周辺から陸路で運ばれてくる農産物・織物などの集積地となり、問屋などが集まる商業都市としても発展した。また、「新河岸川」の舟運で川越と江戸は経済・文化などで密接な関係となり、多くの文人墨客も川越へ訪れるようになった。

写真は1960(昭和35)年頃に撮影された「下新河岸」の廻船問屋「伊勢安(いせやす)」跡。
MAP __【画像は1960(昭和35)年頃】

写真は現在の「伊勢安」跡。

1869(明治2)年、「下新河岸」は「扇河岸」よりさらに上流、川越市街に近い仙波までの開削が開始となり、1879(明治12)年に「仙波河岸」が開設された。写真は明治後期の「仙波河岸」。このあたりは「仙波愛宕神社」裏の崖下で、「仙波沼」とも呼ばれた低湿地であった。明治期以降も「新河岸川」の舟運は盛んであったが、鉄道の開通などで徐々に衰退、水量の減少などもあり1931(昭和6)年に廃止された。
MAP __【画像は明治後期】

「仙波河岸」の跡地の一部は、舟運廃止後も低湿地として残っていた。近年、船着場の跡地は史跡公園として保存・整備されることになり、2004(平成16)年に「仙波河岸史跡公園」(写真)が開園した。

蓮の名所「伊佐沼」 MAP __

「伊佐沼」は、自然の沼としては県内最大、関東でも「印旛沼」に次ぐ広さを誇る。南北朝時代に伊佐氏が溜池として整備し「伊佐沼」と呼ばれるようになったといわれる。江戸期には蓮根が採れ、明治・大正期には蓮の名所としても知られていた。図は江戸後期『新編武蔵風土記稿』に描かれた「伊佐沼」。図中央付近が「伊佐沼」で、北東岸から西方面を描き、右奥が「川越城」となっている。中央奥に描かれている「医王寺」は、明治初期の神仏分離により「伊佐沼薬師神社」となった。右に描かれている、沼に流入する川は、川越の城下町の北側から流れてきた「赤間川」。【図は江戸後期】

「伊佐沼」を含む一帯では大正期以降、用排水路の整備が行われた。「赤間川」は大正後期~昭和初期にかけての改修で「新河岸川」に繋げられたため「伊佐沼」の水源ではなくなり、代わりに「入間川」から取水される「伊佐沼代用水」が「伊佐沼」の水源となった。1938(昭和13)年には北側の約1/3が干拓され、耕地となった。写真は現在の「伊佐沼」。かつては蓮の名所であったが、昭和50年代から沼の水質の悪化により減少、1994(平成6)年より地元農家を中心に蓮の復活への取り組みが行われ、現在では再び蓮の名所として知られるようになった。

1918(大正7)年に着工し1954(昭和29)年に完成した「荒川上流改修工事」

1910(明治43)年に東日本一帯を襲った「明治43年の大水害」では、「荒川」も明治期以降最大の氾濫を起こし、埼玉県内や東京の下町の平野部の多くを浸水させ、人的な被害のほか、建物や農産物などで多大な被害を出した。これを受け、政府は抜本的な治水計画を建て、「荒川」においては上流部と下流部に分けて事業が進められた。「荒川下流改修工事」の中心となる「荒川放水路」の開削工事は、1911(明治44)年に着手、1930(昭和5)年に竣工した。

「荒川上流改修工事」は下流の進捗を見ながら1918(大正7)年に着手となった。工事は蛇行する河道を掘削により直線化するとともに、掘削した土砂を用いて連続する堤防を築いた。また、中流部の広い河川敷には、横堤が27ヶ所(左岸14ヶ所、右岸13ヶ所、現存は25ヶ所)設けられた。横堤は増水時に遊水機能を果たし、また流速を軽減させる効果もある。

また、「荒川」と「入間川」の合流点を下流に引き下げる改修も1931(昭和6)年に着工、両河川の間には背割堤が築かれた。「荒川上流改修工事」は「太平洋戦争」の期間も挟み、1954(昭和29)年に完成している。

図は「荒川上流改修工事」着工前、1906(明治39)年測図の1/50000地形図を加工したもの。図の左側が現在の川越市域となる。 【図は1906(明治39)年】

図は1980(昭和55)年修正の1/50000地形図を加工したもの。この当時の「上江(かみごう)橋」は、橋へ向かう道路の一部に横堤を活用していた。「伊佐沼」が小さくなったこと、初代「上江橋」の場所は「江遠島上江橋」になっていることなどもわかる。
MAP __(江遠島上江橋)【図は1980(昭和55)年】

明治中期、川越と大宮を結ぶ「川越新道」が整備される際、「荒川」に木造の初代「上江橋」が架けられ、1894(明治27)年に開通した。1936(昭和11)年、「荒川上流改修工事」の一環で新たな「上江橋」が着工となったが、「太平洋戦争」で工事は中断。戦後の1952(昭和27)年に工事が再開され、1957(昭和32)年、「日本道路公団」の埼玉県初の有料橋として開通した。写真は開通した頃の「上江橋」。1968(昭和43)年に無料化となった。その後、交通量の増大や老朽化のため、1977(昭和52)年、上流側に「新上江橋」(現「上江橋」の大宮方面行き)が建設され、2車線分で暫定開通、1997(平成9)年に4車線化が完了し、旧「上江橋」は廃止された。
MAP __(旧上江橋跡)【画像は1957(昭和32)年頃】

写真は旧「上江橋」の跡で、現在も築堤部分が残る。左手奥に現在の「上江橋」が架かっている。
MAP __(現在の上江橋)

写真は「荒川上流改修工事」が行われる前の旧道で、この先もまっすぐに伸び、「荒川」を渡って川越方面へ向かっていた。かつては、この道の上を西武大宮線の路面電車が通っており、撮影地点の手前付近に「芝地停留場」が置かれていた。写真中央には廃止された旧「上江橋」の橋脚が残る。奥の橋は現在の「上江橋」。
MAP __(撮影地点)

写真は背割堤の先端部分。「荒川上流改修工事」の一環で、「荒川」(左手)と「入間川」(右手)の合流点を下流に引き下げるために建設された。現在、背割堤には「荒川サイクリングロード」が整備されている。
MAP __

「伊佐沼」から「新河岸川」の水源へ変わった「赤間川」

川越の市街地の西側から北側へ流れる「赤間川」は、江戸後期頃に開削された農業用水で、「入間川」の少し上流(現・狭山市内)から取水し、「伊佐沼」に流れていた。この用水は水田のほか、製粉などの水車経営にも活用された。大正期~昭和初期、一帯の河川改修が行われる中で、1934(昭和9)年に「赤間川」の途中から「新河岸川」へ繋げる水路「新赤間川」が開削された。これにより「伊佐沼」の水源だった「赤間川」は、「新河岸川」の水源となった。写真は大正後期~昭和初期の「赤間川」にかかる「高沢橋」。「高沢橋」はかつては「めがね橋」とも呼ばれた石橋であったが、1910(明治43)年に東日本一帯を襲った「明治43年の大水害」で流出、1912(大正元)年に写真の鉄橋に架け替えられた。
MAP __【画像は大正後期~昭和初期】

写真は現在の「高沢橋」で、1967(昭和42)年に架け替えられた。このあたりの川名は1978(昭和53)年に「新河岸川」となった。


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