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地域の経済と文化の中心地

川越は江戸期から地域の商業の中心地、周辺農村の産物の集積地で、明治期に入ると商業都市として成長した。明治初期には県庁も置かれ、その後は入間郡の中心地に。1922(大正11)年には県内で初めて市制を施行した。明治期以降、中学校(旧制)、高等女学校をはじめ、各種の学校も置かれ、発展を支える人材や、各界の著名人を多く輩出した。江戸期から作られてきた織物は、明治期以降、織物産業・製糸産業として発展した。


明治初期には県庁が置かれた川越

1871(明治4)年7月(旧暦)、「廃藩置県」により川越藩は川越県となり、県庁舎には「川越城」の「本丸御殿」が利用された。同年11月(旧暦)、全国で府県の統合・整理が行われる中で、川越県を中心に岩鼻県の一部、品川県の一部などからなる入間県が誕生した際も、県庁は引き続き「川越城」に置かれた。図は1872(明治5)年頃の『改正 入間県区画輿地(よち)図』で、県域は概ね、現・埼玉県西部であった。入間県は1873(明治6)年に群馬県と統合されて熊谷県の一部となり、この時、県庁所在地は熊谷となった。さらに1876(明治9)年、熊谷県のうちの旧・入間県域と当時の埼玉県(県庁所在地は浦和)が統合され、ほぼ現在の埼玉県域となった。【画像は1872(明治5)年頃】

「川越中学校」と「川越高等女学校」

明治中期の1894(明治27)年、川越町民により県立中学校の熱心な誘致運動が行われ、翌年、県議会は「埼玉県第三尋常中学校」を川越に設置することを決議。その後、建設地の選定や建設工事が進められ、1899(明治32)年、「川越城」跡地の一画に「埼玉県第三中学校」(開校時は「中学校令」の改正により「尋常」はつかない)が開校した。1901(明治34)年に「埼玉県川越中学校」に改称。1912(大正元)年、川越を中心に行われた「陸軍特別大演習」では、大本営と御座所が置かれ、当時即位したばかりの大正天皇が大元帥として統監するために行幸した。写真は大本営として使用された当時の「埼玉県川越中学校」。
MAP __【画像は1912(大正元)年頃】

「埼玉県川越中学校」は、1948(昭和23)年、学制改革に伴い「埼玉県立川越高等学校」となった。開校以来続く男子校で、学業面でも優秀な生徒が多く集まる学校として知られ、福澤桃介(当時は岩崎桃介、のちに「電力王」とも呼ばれる)をはじめ、各界の著名人も多く輩出している。

1906(明治39)年、「川越町立川越高等女学校」が「川越町立川越高等小学校」(現「川越市立川越第一小学校」)内に開校。1911(明治44)年に埼玉県に移管され「埼玉県立川越高等女学校」となり、現在地に移転した。写真は大正期~昭和戦前期の「埼玉県立川越高等女学校」。1921(大正10)年には英語が必修となり、法律、経済といった科目も加えられるなど、広い視野を持ちながら社会で活躍できる女性の育成を目指した。
MAP __【画像は大正期~昭和戦前期】

「埼玉県立川越高等女学校」は、1948(昭和23)年、学制改革に伴い「埼玉県立川越女子高等学校」となった。学業面でも優秀な生徒が多く集まる学校として知られ、各界の著名人も多く輩出している。

県内で初めて市制を施行した川越市 MAP __

川越は明治期から大正期にかけて、県下最大の商業都市、また入間郡の中心都市として栄え、人口も県内最大の都市であった。1889(明治22)年、町村制施行により川越町が発足。当初の町役場は江戸町に置かれていたが、「陸軍特別大演習」の大本営が川越に置かれることになり、天皇の行幸が決定したことを受け、これに間に合わせる形で1912(大正元)年、本町に新庁舎が建設された。その後、1922(大正11)年に県内で初めて市制を施行し川越市となり、この建物は市役所となった。写真は昭和戦前期の「川越市役所」の庁舎。隣接して「川越警察署」(写真右奥)があった。【画像は昭和戦前期】

「川越市役所」は1972(昭和47)年に、道路を挟んで向かいの北側、現在の場所に庁舎が建設されたため、旧庁舎はその役目を終えた。跡地は駐車場などになっている。
MAP __(現在の川越市役所)

写真は1922(大正11)年の市制施行時の市内の祝賀の絵葉書に使われていたもので、軒先には紅白幕や提灯、市章入りの旗が掲げられている。撮影場所は志義町(現・仲町)で、左手に絵葉書の発行元「早川アサヒ堂(早川書店)」の店舗が見える。左奥の重厚な瓦屋根を持つ建物は「松崎砂糖店」の店蔵。その奥の建物は「南町通り」(現「川越一番街商店街」)を挟んであった「川越郵便局」で、1910(明治43)年から1929(昭和4)年まで、この場所に立地していた。「松崎砂糖店」は丁字路の北西側の角地、「川越郵便局」は北東側の角地にあった。この丁字路は、1933(昭和8)年の「中央通り」開通により十字路となり、現在は「仲町交差点」と呼ばれている。
MAP __(撮影地点付近)【画像は1922(大正11)年】

「仲町交差点」を望む、現在の同地点の付近の様子。「早川アサヒ堂」があった場所は「仲町交差点」の手前付近となる。「松崎砂糖店」の店蔵は「マツザキスポーツ」の店舗として残る。「川越郵便局」があった場所は「亀屋」「山崎美術館」などのコインパーキングとなっている。

「川越市役所」の屋上から望む昭和戦前期の街並み

昭和戦前期、「川越市役所」の屋上から南東方向を望んだ写真で、斜めに延びる道は「江戸町通り」。右に大きく写る建物は「川越警察署」(1929(昭和4)年改築)の塔屋で、サイレンも設置されていた。塔屋のすぐ左の幟には「松竹キネマ」と書かれており、そこから少し路地を西(写真では右)へ入った所に映画館「川越演芸館」(現「川越スカラ座」)があった。幟から2軒左の建物は料亭の「八百勘」。塔屋から2~3軒奥に見える蔵は、明治から大正期にかけて川越と大宮を結ぶ乗合馬車を経営していた「佐久間軒」のもの。右端の奥にある大きい建物は「第八十五銀行」となる。【画像は昭和戦前期】

写真は同地点を反対側、正岡子規の句碑の前付近から撮影したもの。右が現在も残る旧「佐久間軒」の蔵。その先の木の手前がかつて「川越警察署」があった場所で、その隣に「川越市役所」が建っていた。右奥の建物は現在の「川越市役所」。
MAP __(旧佐久間軒の蔵)

「八百勘」は、明治~大正期に川越を代表した旅館「今福屋旅館」の建物・敷地を、1927(昭和2)年に引き継いだ料亭であった。「今福屋旅館」時代の1891(明治24)年には俳人・歌人の正岡子規が宿泊しており、現在、跡地には1962(昭和37)年建立の句碑が残る。
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写真は現在の「川越スカラ座」。1905(明治38)年に開業した寄席「一力亭」を前身とし、1907(明治40)年「おいで館」へ改称。1921(大正10)年に映画館の「川越演芸館」となり、1940(昭和15)年「川越松竹館」へ改称、1963(昭和38)年に「川越スカラ座」となった。一時閉館となったが、市民の存続の声から復活となり、現在も埼玉県内最古の映画館として営業を続けている。写真の道路の突き当りが過去の写真で「松竹キネマ」の幟が出ていた所になる。
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織物・製糸産業の発展

1910(明治43)年頃の「川越織物市場」

写真は1910(明治43)年頃の「川越織物市場」。【画像は1910(明治43)年頃】
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川越は、江戸時代より「川越ななこ」「川越絹平」「川越唐桟二子織」などの織物が作られており、明治期になると織物は産業としてさらに発展。織物関係の工場、組合、会社、学校なども設立された。明治末期頃からは別珍・コール天の生産も盛んになり、特に高階村一帯は「別珍村」と呼ばれるまでに至った。

川越は江戸後期から明治前期にかけて、全国有数の織物の集散地となっていたが、不景気や取引が他の町へ分散するなどで一時期衰退。織物取引を再活性化させるため、1910(明治43)年に「川越織物市場」が開設された。大正後期に市場としての役目を終えた後は、住居として使用されてきたが、近年開発による取り壊しが計画されると、保存運動が起こり、2002(平成14)年、「川越市開発公社」が保全のため土地を取得。2017(平成29)年度から川越市が「旧川越織物市場整備事業」を進め、文化財としての復原を行うとともに、建物を文化創造インキュベーション施設とする整備が2024(令和6)年までの予定で行われている。

1912(大正元)年頃の「埼玉県立川越染織学校」

写真は1912(大正元)年頃の「埼玉県立川越染織学校」。【画像は1912(大正元)年頃】
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1907(明治40)年、埼玉県は当時、織物生産の中心地であった川越に「埼玉県立川越染織学校」を設置し、翌年開校した。染織の理論と実践を教え、技術向上を目的とする学校であった。1918(大正7)年に「埼玉県立工業学校」、1937(昭和12)年に「埼玉県立川越工業学校」への改称を経て、戦後の1948(昭和23)年に現在の「埼玉県立川越工業高等学校」となっている。

現在の「埼玉県立川越総合高等学校」

写真は現在の「埼玉県立川越総合高等学校」。
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また、1920(大正9)年には、前述の「埼玉県立工業学校」内に「埼玉県立蚕業学校」も開校となり、翌年、現在地となる新校舎へ移転、1934(昭和9)年に「埼玉県立農蚕学校」、1939(昭和14)年に「埼玉県立川越農蚕学校」への改称を経て、戦後の1948(昭和23)年に「埼玉県立川越農業高等学校」へ改称、1996(平成8)年より現在の「埼玉県立川越総合高等学校」となった。


1899(明治32)年に開設された「川越生繭乾燥所」 MAP __

江戸末期、秋田藩士の家に生まれた御法川(みのりかわ)直三郎は、若い頃は養蚕に取り組み、明治中期より製糸器械の改良を行い、日本の製糸業の発展や品質向上に大きく寄与した発明家。1895(明治28)年には東京・小石川に機械工場の「御法川工場」を開設した。1899(明治32)年、直三郎は、「御法川工場」の機械を導入した模範的工場として、「川越生繭乾燥所」を開設した。【画像は1900(明治33)年頃】

「川越生繭乾燥所」の製品は高品質で、生産量も多かったが、1908(明治41)年、当時国内有数の製糸会社で、現・入間市にあった「石川組製糸」が買収、その「川越工場(第三工場)」となった。しかし、「石川組製糸」は「関東大震災」による損失や「昭和恐慌」などから、徐々に経営が悪化、1937(昭和12)年に解散となった。【画像は1912(大正元)年頃】

「石川組製糸 川越工場」の跡地は、現在は「川越市立中央図書館」(写真)になっている。

「日清紡績 川越工場」は戸建分譲団地に MAP __

川越では、1923(大正12)年に紡績工場の「大興紡績」も操業を開始した。1927(昭和2)年に「川越紡績」、1937(昭和12)年に「日清紡績 川越工場」となった。川越鉄道(現・西武新宿線)沿いに位置し、専用ホームも置かれていた。写真は1959(昭和34)年頃の「日清紡績 川越工場」。【画像は1959(昭和34)年頃】

事業所は2009(平成21)年に閉鎖され、2012(平成24)年に戸建分譲団地「川越ココロマチ」が街びらきとなった。写真は現在の「川越ココロマチ」の街並み。


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