1871(明治4)年7月(旧暦)、「廃藩置県」により川越藩は川越県となり、県庁舎には「川越城」の「本丸御殿」が利用された。同年11月(旧暦)、全国で府県の統合・整理が行われる中で、川越県を中心に岩鼻県の一部、品川県の一部などからなる入間県が誕生した際も、県庁は引き続き「川越城」に置かれた。図は1872(明治5)年頃の『改正 入間県区画輿地(よち)図』で、県域は概ね、現・埼玉県西部であった。入間県は1873(明治6)年に群馬県と統合されて熊谷県の一部となり、この時、県庁所在地は熊谷となった。さらに1876(明治9)年、熊谷県のうちの旧・入間県域と当時の埼玉県(県庁所在地は浦和)が統合され、ほぼ現在の埼玉県域となった。
川越は江戸期から地域の商業の中心地、周辺農村の産物の集積地で、明治期に入ると商業都市として成長した。明治初期には県庁も置かれ、その後は入間郡の中心地に。1922(大正11)年には県内で初めて市制を施行した。明治期以降、中学校(旧制)、高等女学校をはじめ、各種の学校も置かれ、発展を支える人材や、各界の著名人を多く輩出した。江戸期から作られてきた織物は、明治期以降、織物産業・製糸産業として発展した。