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海岸と演習場

茅ヶ崎は「関東大震災」で大きな被害を受けたが、その復興期、海岸地域は地価の安さや交通の便の良さなどから、別荘地・住宅地として発展していった。1930(昭和5)年には「横浜貿易新報」主催の『県下新住宅地十佳選』で第6位に入選している。一方、辻堂の海岸付近には、江戸時代の「相州炮術調練場」を前身とする「日本海軍」の演習場が置かれていたため、昭和初期に湘南の田園都市計画の一環で建設された「湘南遊歩道」は、これを大きく迂回することになった。戦後、演習場は「連合国軍」(のち「米軍」)に接収、1959(昭和34)年に返還された。


「江の島」を望む「湘南遊歩道」

1930年代頃より、湘南地域を「大東京の風景地」として開発する田園都市計画が進められ、その一環で、最初の具体策として建設されたのが「湘南遊歩道」。1931(昭和6)年に3年計画で着工したが、「辻堂海岸」の海軍用地の通過問題などで工事は遅れ、1936(昭和11)年に完成した。東は片瀬村(現・藤沢市)の「龍口寺」前、西は大磯町の「大磯郵便局」までの約16.7kmからなり、現在の「国道134号」の西側部分にあたる。「横須賀海軍砲術学校 辻堂演習場」(現「神奈川県立辻堂海浜公園」一帯)を避けるため、現在の「浜見山交番前交差点」~「浜須賀交差点」間は大きく北側へ迂回(現「浜見山交差点」を経由)していた。写真は昭和戦前期の「湘南遊歩道」で、右奥に「江の島」が見える。
MAP __(浜見山交番前交差点)MAP __(浜須賀交差点)MAP __(浜見山交差点)【画像は昭和戦前期】

「横須賀海軍砲術学校 辻堂演習場」は、戦後接収され、「米軍」の演習場「チガサキ・ビーチ」となっていたが、1959(昭和34)年に接収解除となり、翌1960(昭和35)年に「浜見山交番前交差点」~「浜須賀交差点」の海岸沿いのルートが開通。1964(昭和39)年、「東京オリンピック」の開催に備えて街路灯が設置され、翌1965(昭和40)年には「国道134号」に指定されており、湘南の海岸沿いの幹線道路として現在に至る。写真は「小和田浜公園」付近から「江の島」方面を望んでおり、海岸沿いに通る「国道134号」は、1960(昭和35)年に開通した区間となる。
MAP __(小和田浜公園)

虚弱児のための寄宿制の小学校「白十字会林間学校」 MAP __

「社団法人 白十字会」(現「社会福祉法人 白十字会」)は、結核予防を目的に1911(明治44)年に設立された。設立者の一人、林止(とどむ)医師は、1903(明治36)年から2年間、「南湖院」の副長を務めた人物でもあった。「白十字会」が「白十字会林間学校」を設立するにあたっては、林医師の進言もあり、茅ヶ崎が療養に適した地として建設地に選ばれ、1917(大正6)年に開校、林医師は校医を務めた。「白十字会林間学校」は、国内初となる医療と教育を備えた虚弱児のための寄宿制私立小学校で、設立時の児童数は8名であったが、1939(昭和14)年には120名を超えるまでになった。【画像は昭和戦前期】

戦後、児童福祉と教育の機能が分離され、現在は児童養護施設の「白十字会林間学校」(写真)と、学校法人の「平和学園」が隣接して存続している。「平和学園」は1946(昭和21)年に設立され、初代理事長は賀川豊彦が務めた(理事としては1926(大正15)年より関わっていた)。現在「平和学園」は、この地で「平和学園幼稚園」「平和学園小学校」「アレセイア湘南中学校」「アレセイア湘南高等学校」を運営している。

「米軍」の演習場「チガサキ・ビーチ」

「太平洋戦争」後、「茅ヶ崎海岸」の旧「日本海軍」施設は、「連合国軍」(のち「米軍」)に接収された。「烏帽子岩」を含む沖合一帯も含まれ、「チガサキ・ビーチ」と名付けられた。特に「横須賀海軍砲術学校 辻堂演習場」跡地の約103万㎡(「東京ドーム」約22個分)の広大な敷地では、上陸、砲撃、爆発物の処理などの訓練が行われた。写真は1953(昭和28)年に撮影された、「米陸軍第1騎兵師団」の上陸演習風景。右奥にはうっすらと「江の島」が見える。演習は、騒音などで住民に多大な影響を及ぼし、戦車の砲撃訓練では「烏帽子岩」に照準が合わせられ、先端が吹き飛ばされた。【画像は1953(昭和28)年】

「チガサキ・ビーチ」は1959(昭和34)年に日本に返還された。演習場を迂回していた「国道134号」(旧「湘南遊歩道」)は、翌1960(昭和35)年に海岸沿い部分が開通した。現在、演習場の跡地は「神奈川県立辻堂海浜公園」をはじめ「UR」の「辻堂団地」、「湘南工科大学」「松下政経塾」などになっている。写真は現在の浜須賀の海岸。
MAP __(松下政経塾)


計画されていた「コロネット作戦」

『コロネット作戦概要図』

図は「米国国立公文書館」所蔵の『コロネット作戦概要図』。
【図は1945(昭和20)年】

「太平洋戦争」末期の1944(昭和19)年より「米軍」を中心とする「連合国軍」は、日本の本土へ上陸する「ダウンフォール作戦」を計画、翌1945(昭和20)年5月には正式に決定した。作戦は2段階になっており、1945(昭和20)年11月に南九州に上陸する作戦を「オリンピック作戦」、1946(昭和21)年3月に関東に上陸し、東京を占領する作戦を「コロネット作戦」と称した。

「コロネット作戦」は、東京の南西にあたる「茅ヶ崎海岸」と、東の千葉県「九十九里浜」から上陸し、「日本軍」を挟み撃ちにする作戦であった。「茅ヶ崎海岸」は波が穏やかで、東京までの道も整備されており、「相模川」で名古屋方面からの「日本軍」の支援部隊を防御しやすい、といった理由などから「九十九里浜」よりも重要視されていた。「茅ヶ崎海岸」には30万人、「九十九里浜」に24万人、予備兵力合わせて107万人の兵士と1,900機の航空機が投入される大規模な計画だった。「茅ヶ崎海岸」上陸後は、相模原や座間の「日本軍」施設に向かい、横浜や八王子方面へ展開する計画であったという。

「コロネット作戦」決行予定だった1946(昭和21)年3月の3か月前から、「連合国軍」は艦砲射撃と空襲を行う計画もあった。日本側も、この上陸作戦は把握しており、本土決戦に向けての準備が進められた。

「連合国軍」は、1945(昭和20)年6月までの「沖縄戦」で、「日本軍」や住民の激しい抵抗に遭い、多くの死傷者を出したことから、「オリンピック作戦」「コロネット作戦」を実行した場合、多くの損害や犠牲が予想されたため、賛否両論があった。1945(昭和20)年8月、広島市・長崎市の原爆投下もあり、日本は「ポツダム宣言」を受諾。終戦を迎えたため「コロネット作戦」が実行されることはなく、茅ヶ崎は本土決戦の地とはならなかった。



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