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戦後の藤沢・辻堂

戦後、藤沢市では工場誘致が進められ、大手企業の工場進出が続いた。また、団地をはじめ、住宅地も整備され住宅都市としての一面も持つようになった。辻堂の米軍からの返還地では大規模な公園や団地、学校などが整備された。近年では大規模な工場跡地に官民一体となった街づくりも行われている。


「松下電器産業」など大手企業の工場進出

戦後の1957(昭和32)年より、藤沢市では工場誘致が進められ、「いすゞ自動車」など大手企業の工場進出が続いた。「松下電器産業」(現「パナソニック」)は1963(昭和38)年、関東に初進出となる工場を藤沢に開設し、白黒テレビ、PC用ディスプレイモニターなどを生産した。写真は開設当初の頃の「松下電器産業 藤沢工場」。 【画像は1964(昭和39)年】

「パナソニック 藤沢工場」は2009(平成21)年に撤退、跡地には同社と藤沢市が中心となり「生きるエネルギーがうまれる街。」をコンセプトとする「Fujisawa SST(サスティナブル・スマートタウン)」が整備され、2014(平成26)年に街びらきとなった。 MAP __

住宅都市としての発展 MAP __

藤沢市は戦後に住宅都市としても発展。「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)による団地の建設も進められ、昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて「辻堂団地」「善行団地」などの大規模団地が誕生した。「辻堂団地」は、「辻堂演習場」の返還後、跡地の一部に建設された。賃貸1,913戸、分譲280戸からなり、1964(昭和39)年から入居が開始となった。写真は建設中の様子。【画像は1964(昭和39)年】

「辻堂団地」には、建設当時の建物が残っている。

「藤沢駅」周辺の風景

1956(昭和31)年に市役所本館望楼から「藤沢駅」方面を撮影した写真。撮影場所の望楼は高さが27mもあり、昭和30年代まで消防が火の見櫓として使っていた。【画像は1956(昭和31)年】

写真は「藤沢市役所本庁舎」の9階展望デッキからの撮影。 MAP __

写真は1965(昭和40)年に「フジサワ名店ビル」から撮影した「藤沢駅」南口。写真中央は江ノ電の駅舎で、当時は右上の小田急の改札、右の国鉄の改札と隣接していた。右下の階段は撮影同年に開通の「藤沢駅地下道」へつながっている。江ノ電の駅は「藤沢駅前南部地区土地区画整理事業」に伴い1972(昭和47)年に仮駅へ移転、1974(昭和49)年に「江ノ電ビル」内の駅が開業、現在に至っている。 MAP __【画像は1965(昭和40)年】

現在、江ノ電の旧「藤沢駅」の跡地付近は駅直結の商業施設「リエール藤沢」となったが、「藤沢駅地下道」へ向かう階段は、ほぼそのままの形で残っている。


辻堂の砂丘地帯

「貝殻山」から望む別荘地

昭和戦前期の「貝殻山」(現「辻堂団地」付近)から望む別荘地。【画像は昭和戦前期】 MAP __(貝殻山跡)

「相模湾」の北側の海岸線には、東西に長い砂浜が延び、その内陸側に「湘南砂丘地帯」が広がる。「相模川」などの河川が運んできた砂が、波や風に運ばれて形成されたもので、鵠沼・辻堂の海岸の砂浜・砂丘もその一部となる。

江戸中期の1728(享保13)年、徳川幕府により「湘南海岸」一帯に「相州炮術調練場(鉄砲場)」が設けられた。明治初期になるとその一部、現在の「辻堂海岸」一帯が「日本海軍」の演習場などに使用され、1926(大正15)年に「横須賀海軍砲術学校 辻堂演習場」が置かれた。

辻堂では明治期から別荘や住宅が造られはじめ、1916(大正5)年に駅舎用地と建設資金を地元有志が提供する形で東海道線「辻堂駅」が開業。これをきっかけに住宅地が開発されるようになった。

昭和戦前期の「辻堂演習場」

昭和戦前期の「辻堂演習場」。【画像は昭和戦前期】

「辻堂海浜公園」

返還地の一部に作られた「辻堂海浜公園」。 MAP __

演習場は戦後に接収され「在日米海軍辻堂演習場」となった後、1959(昭和34)年に返還された。返還前には現在横浜市にある「こどもの国」建設の候補地にも挙がっていたが実現しなかった。返還後には住宅を含む様々な施設が作られた。「辻堂団地」は「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)によって開発され、1964(昭和39)年から入居が始まった。1971(昭和46)年には海岸付近に「神奈川県立辻堂海浜公園」が開園。その北側には、1961(昭和36)年に「相模工業高等学校」(現「湘南工科大学附属高等学校」)が開校し、翌々年には「相模工業大学」(現「湘南工科大学」)も開学している。



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