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「相模川」と「相模鉄道」

戦国時代に開かれた「相模川」の舟運は、江戸時代に盛んになり、木材の運搬などに広く利用され、明治期から昭和初期までは、生活物資などを運ぶ「帆かけ舟」も見られた。茅ヶ崎に本社を置いた「相模鉄道」(現・JR相模線)は、1921(大正10)年に開通しているが、当初は「相模川」の砂利輸送を中心としていた。経営は資金不足のため苦しいものだったが、「多摩川」での砂利採取が禁止となったことに加え、「関東大震災」からの復興などで砂利の需要が増えていき、次第に活気づいていった。また、「相模鉄道」の沿線に工場が立地するようになると、通勤客や貨物の利用も増え、茅ヶ崎の発展に大きな役割を果たした。


「相模鉄道」の開通

1921(大正10)年、「相模鉄道」(現・JR相模線)は茅ヶ崎~寒川間を開通させた。砂利輸送を中心とし、開業当初は資金繰りが苦しかったが、1923(大正12)年の「関東大震災」のあとは、復興のため砂利需要が高まった。1926(大正15)年4月には倉見まで、同年7月には厚木まで路線が延長され、1931(昭和6)年には茅ヶ崎~橋本間の全線が開通した。図は昭和初期、鳥瞰図絵師・金子常光(つねみつ)により描かれた『相模鉄道沿線案内』のうち、茅ヶ崎付近。「相模鉄道」の本社は「茅ヶ崎駅」の北側に置かれていた。【図は昭和戦前期】

「相模鉄道」は1944(昭和19)年に戦時輸送の確保のため国有鉄道となった。1991(平成3)年に全線が電化され、スピードアップ、運行本数は約1.5倍となり、通勤通学路線として利便性が向上した。写真は、かつて「相模鉄道」の本社があった、現在の新栄町10番4号付近の様子。
MAP __(本社跡地)

ちなみに、「相模鉄道」は1943(昭和18)年に「神中鉄道」(横浜~海老名間)を吸収合併したが、翌年、茅ヶ崎~橋本間が国有化されてしまったため、「相模鉄道」は横浜~海老名間の路線を運行する私鉄として存続となり、現在に至っている。

「多摩川」に代わって盛んになった「相模川」の砂利採取 MAP __

「相模川」での砂利の採取量は明治期から大正期にかけて徐々に増えていった。写真は明治中期~大正中期、「馬入川橋梁」付近での砂利採取の様子。「関東大震災」後、復興のため都心に近い「多摩川」において、盛んに砂利が採取されたが、乱掘により下流部は採取禁止となったため、「相模川」での砂利採取が本格化した。その後も、1940(昭和15)年に予定されていた「東京オリンピック」、戦後の復興、1964(昭和39)年の「東京オリンピック」などでの需要もあり、「相模川」の砂利は掘り続けられた。これにより、河床は次第に低下し、鉄道や道路の橋脚が浮き上がってくるという問題が生じ、「相模川」での砂利採取は1964(昭和39)年に全面禁止となった。【画像は明治中期~大正中期】

「相模川」における、1964(昭和39)年の砂利採取の全面禁止までの総砂利採取量は2,240万㎥ともいわれる。この影響で「相模川」の河口付近(「馬入川」と呼ばれる)では、砂州の後退も見られた。

「相模鉄道」の「香川駅」 MAP __

「相模鉄道」は1921(大正10)年に茅ヶ崎~寒川間で開業し、茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)内には「香川駅」も置かれた。その後、茅ヶ崎~香川間には、1932(昭和7)年に「円蔵駅」、1940(昭和15)年に「日東駅」、1941(昭和16)年に「香川台駅」と3駅が設けられたが、戦時中の1944(昭和19)年、国策により「相模鉄道」は国有化され国鉄(現・JR)相模線となり、この際に「円蔵駅」と「香川台駅」が廃止、「日東駅」が「北茅ヶ崎駅」に改称となった。写真は1981(昭和56)年の「香川駅」前の広場と商店。
MAP __(円蔵駅跡地)MAP __(北茅ヶ崎駅)【画像は1981(昭和56)年】

現在、「香川駅」周辺は住宅地となっており、駅前には商店やスーパーマーケットも見られる。「香川駅」は1980(昭和55)年に、現在も使用されているコンクリートの駅舎(写真右手)に建て替えられた。

多くの廻船が出入りした「柳島湊」

「馬入川」とも呼ばれる「相模川」の河口付近には「柳島湊」があった。江戸期には川の上流から筏で運ばれてきた木材や茅ヶ崎の年貢米などを江戸へ積み出したほか、駿河地方や遠江地方の商人とも取引を行っていた。江戸末期の1841(天保12)年頃に編纂された『新編相模国風土記稿』の柳島村の項には、『眺望佳景多し。富士箱根大山近く聳(そび)え、南海は渺茫(びょうぼう・広く果てしないさま)として天に連れり』と記される、風光明媚な場所でもあった。写真は明治後期の様子。【画像は明治後期】

「茅ヶ崎市立柳島小学校」の東から、「UR都市機構」の「コンフォール茅ヶ崎浜見平」(旧「浜見平団地」)の南西部、「松尾川」が暗渠になっているあたりが、昔の「柳島湊」の河岸であったと考えられている。
MAP __(柳島小学校)MAP __(松尾川の暗渠)

図は明治前期、陸軍により作成された『第一軍管区地方2万分1迅速測図原図』の柳島付近。【図は明治前期】

図は1979(昭和54)年発行の柳島付近の地形図。【図は1979(昭和54)年発行】


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