1898(明治31)年の「茅ヶ崎駅」開業を機に、周辺地域では別荘が建てられるようになり、農村地帯と別荘地とが共存する町となっていった。駅開業前には外科医・須田経哲や歌舞伎俳優の九代目・市川團十郎、駅が開業すると「宮内省」「内務省」の高級官僚、軍人、学者なども別荘を構えるようになった。明治末期には200棟を超す別荘があったという。一方で、戦前の最盛期には東洋一の設備をもつまでに発展した結核専門病院「南湖院」も開院。都会の上層階級の患者を優待したことから、周辺には文化人や富裕人が集まり保養地・療養地としての性格も持つようになった。
「茅ヶ崎駅」の開設と別荘地・保養地としての発展
「茅ヶ崎駅」の開業 MAP __
「馬入川」に架けられた鉄橋 MAP __
官営鉄道の建設時、「馬入川」(「相模川」の河口付近の名称)には鉄橋が架けられた。当時、国内での鉄橋の建設実績は少なく、技術的に不安があったという。橋は砂地に木の枠を土台として造られたため、試運転の列車が通過した際に橋脚が40cmあまり沈んだという記載も残されている。写真は大正中期の撮影で、東海道本線の上下線の列車がすれ違っている。この橋は1923(大正12)年に発生した「関東大震災」により倒壊した。奥には「国道1号」の道路橋である「馬入橋」が見えるが、この当時はまだ木橋で、鉄橋となるのは震災後の1926(大正15)年であった。
『東洋一のサナトリウム』と呼ばれた「南湖院」 MAP __
1899(明治32)年、医師である高田畊安(こうあん)は、空気が清涼な地であった茅ヶ崎村字西南湖下に土地を求め、結核療養所「南湖院」を開設した。最盛期には5万坪の敷地に14の病棟と様々な施設が点在し、『東洋一のサナトリウム』と呼ばれた。写真は昭和初期に撮影されたもの。病棟の配置は院内感染を避けるために距離を置いて配置されるとともに、周辺地域へも配慮されていた。
現在の中海岸三丁目にあった『ドイツ村』 MAP __
「茅ヶ崎駅」の開設が決まった1896(明治29)年頃から、周辺では次第に別荘が建てられていった。フランス人のエメー・コイが柳島に、アルボンスメークルが南湖に、イギリス人のボールデンが菱沼と、外国人も別荘を構えるようになり、人々からは「異人館」と呼ばれた。明治期から大正期にかけて、茅ヶ崎には20人を超える外国人が住んでおり、この地に新しい文化を持ち込むだけでなく、村政への助言や寄付などの援助、海岸植林など地域の発展に大きな影響を与えた。写真は、松林周辺に点在するドイツ人の別荘で、このあたりは『ドイツ村』と呼ばれたという。
写真は、現在の中海岸三丁目付近で、この一帯が、かつて『ドイツ村』と呼ばれた。1899(明治32)年、このあたりに創業した「茅ヶ崎館」は、現在も営業を続ける旅館で、文豪・国木田独歩が1908(明治41)年に「南湖院」で療養していた際、田山花袋や真山青果などの文人が各地から見舞いに訪れここに宿泊したという。また、戦前・戦後の松竹を代表する映画監督・小津安二郎が、『晩春』や『東京物語』など数々の名作の脚本をここで書き上げたという。その際に利用した仕事部屋は「二番のお部屋」として残されている。