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変わりゆく海辺の景色と文化

風光明媚な湘南地域は、江戸時代から遊山の地であった。明治中期、茅ヶ崎は歌舞伎役者の九代目・市川團十郎をはじめとする芸術家や文化人、さらには財界の名士らによる別荘地として発展し、明治末期には保養を目的とする海水浴場も開設された。昭和期になると、東京や横浜方面からも多くの行楽客が訪れるようになった。戦後はサーフィンを楽しむ人々も徐々に増え、1960年代より加山雄三氏らにより湘南の音楽文化(「湘南サウンド」とも呼ばれる)が発展、1970年代には「サザンオールスターズ」らの活躍もあり、湘南は若者たちを中心にさらに人気となっていった。今日では、海水浴、サーフィン、釣りなど様々なマリンスポーツに興ずる人々が多く訪れるほか、湘南での暮らしに憧れて移住してくる人も多い。


高級リゾートホテル「パシフィックホテル茅ヶ崎」 MAP __

戦後の高度成長期、茅ヶ崎は温和な気候の景勝地として、住宅地や観光地の開発が急速に進んでいった。1965(昭和40)年には、俳優の上原謙氏や加山雄三氏らが共同オーナーとなり、「国道134号」沿いに「パシフィックホテル茅ヶ崎」を建設した。設計は菊竹清訓氏で、客室が螺旋状に取り巻く斬新なデザインの外観であった。ドライブインのほか、ボウリング、プール、ビリヤードなどの娯楽施設、さらにはウインドサーフィンやジェットスキーのレンタルも行い、様々なレジャーを楽しむことができる先進的な海辺の高級リゾートホテルとして注目を浴びた。写真は1969(昭和44)年、「パシフィックホテル茅ヶ崎」から見た「茅ヶ崎海岸」。【画像は1969(昭和44)年】

話題性の高いホテルであったが、1970(昭和45)年、わずか5年で運営会社が倒産。ホテルは売却ののち、休業・再開を経て、1988(昭和63)年に廃業となった。跡地には1999(平成11)年にマンション「パシフィックガーデン茅ヶ崎」が建設された。なお、「パシフィックホテル茅ヶ崎」は、「サザンオールスターズ」が2000(平成12)年にリリースした楽曲『HOTEL PACIFIC』のモデルになっている。桑田佳祐氏はかつて、ホテルに併設されていたボウリング場でアルバイトをしていたという。

保養地として賑わった「茅ヶ崎海水浴場」 MAP __

風光明媚な湘南地域は、江戸時代から遊山の地であった。1898(明治31)年に「茅ヶ崎駅」が開業する前後から、別荘・療養所が点在する保養地としても発展していった。明治後期には「茅ヶ崎海水浴場」も開設され、さらに昭和前期に「相模鉄道」が全線開通すると、八王子方面からの海水浴客も増えて賑わっていった。戦時下になると「日本海軍」の演習が行われ、戦後は「米軍」の演習場「チガサキ・ビーチ」の一部となったため、海水浴場としての機能は失われたが、1959(昭和34)年の返還で、再び戦前の活気を取り戻した。写真は「米軍」から演習場が返還されたのちの様子。【画像は1960(昭和35)年頃】

1970年代頃になると、「茅ヶ崎駅」から海水浴場を結ぶバスも運行され、海水浴だけでなくサーフィンやビーチバレーなどのマリンスポーツも盛んになっていった。「茅ヶ崎海水浴場」は、1999(平成11)年に「サザンオールスターズ」にちなみ「サザンビーチちがさき」へ改名された。

地引網の漁場からサーファーで賑わう海へ MAP __

「相模湾」では鎌倉時代から地引網漁が行われていた。明治後期、小和田村には10軒の網元がいたという。明治期から大正期にかけて、浜が忙しいときは漁に出て、漁がなければ畑を耕すという半漁半農だった。中海岸にある「カネサ網重政商店」は1887(明治20)年創業の老舗で、「相模湾」で専業漁業地引網元として漁師を営むかたわら、加工業も行っている。【画像は明治後期】

現在の湘南の海は、マリンレジャーや海水浴客が多く、かつての地引網漁の風景から大きく変わっている。1950年代、駐留する米兵が、日本にサーフィンを持ち込んだといわれ、1960年代後半には、雑誌『平凡パンチ』にサーフィンの記事が掲載され話題を呼び、茅ヶ崎・辻堂近辺のショップも紹介されるようになった。また、1970年代後半には雑誌『POPEYE』などでも湘南エリアのサーファーやサーフショップが特集され、特に湘南がサーフィンの地として脚光を浴びることになった。湘南の海岸は東京からアクセスしやすいこともあり、多くのサーファーたちが訪れるようになっていった。写真は「ヘッドランドビーチ」付近の様子。


『暁の祭典』とも呼ばれる「浜降祭」 MAP __(茅ヶ崎西浜海岸)

神輿が海に入る「禊」の様子

神輿が海に入る「禊(みそぎ)」の様子。早朝の海で「禊」を行うことから『暁の祭典』とも呼ばれている。

「浜降(はまおり)祭」の始まりは諸説ある。古くから大磯で行われていた「国府祭(こうのまち)」に渡御した「寒川神社」の神輿が「相模川」の渡し場で流されてしまい、数日後にそれが「南湖の浜」で発見されたことから、お礼のために「寒川神社」が毎年浜辺で「禊」をするようになったという説。別の説では、それよりも以前から、「寒川神社」は「相模川」河口で、「鶴嶺八幡宮」は「南湖の浜」でそれぞれ「禊」を行っていたとする。それを南湖に統一して合同で行われるようになり、その他の神社も参加するようになったという。現在は後者の説が有力となっている。
MAP __(寒川神社)

「禊」の神事が「浜降祭」の名称になったのは1876(明治9)年。この年、それまで「寒川神社」は6月30日、「鶴嶺八幡宮」は6月29日に行っていたが、農繁期を避けるために新暦の7月15日とされた。しかし、曜日が固定されないと担ぎ手の確保が難しく、観客も訪れにくいため、1997(平成9)年からは祝日である「海の日」(当時は7月20日)に変更となった。2004(平成16)年には祝日法の改正により「海の日」が変更になったことから「浜降祭」の開催日も合わせて変更され7月の第3月曜日となり、今に続いている。

1950年代頃は20~30基ほどの神輿が参加しており、1961(昭和36)年には県の無形民俗資料に指定された。しかし1960年代前半には工場の進出などによって農地が減少し、勤め人が増えてきたこともあり担ぎ手が減少。渡御の際の交通規制も厳しくなり、参加数はわずか10数基となり祭りは縮小、1970(昭和45)年には乱闘騒ぎもあり、翌1971(昭和46)年にはわずか6基のみの参加となった。1964(昭和39)年には神輿を海岸までトラックで運び、海岸でのみ担ぐという方式も出てきた。

近年は担ぎ手の組織などが様々な工夫を凝らし、伝統行事の復活ムードも盛り上がり始めたことから、再び活気づき、今では「南湖の浜」に参集する勇壮な姿を見に多くの見物客も集まる。神社と浜の往復を担がれる神輿もあれば、往路もしくは復路はトラックで運ぶ神輿など様々ではあるが、全国でも、これほどの数(近年は約40基)の神輿が一堂に会する祭礼は珍しいという。




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