「菊人形」の前身である「造り菊」(人物や鳥獣、風景を造形する菊の作り物)は、江戸後期に巣鴨で始まり、その後、一時衰退するも1812(文化9)年、染井で評判となったことをきっかけに、周辺で再び造られるようになった。さらに、江戸末期の1844(弘化元)年、巣鴨の寺院において「日蓮上人の法難」と「蒙古襲来」を再現した「造り菊」が評判になると、巣鴨から根津にかけての一帯の、多くの植木屋がこれに倣って作り始めたが、ほとんどは簡単なもので、幕末~明治初期にかけては衰退を見せたという。
「団子坂」では、1856(安政3)年に巣鴨より移住してきていた植木屋(のちの「植梅」)が、1875(明治8)年に制作した「造り菊」が評判となり、翌年からは興行として入場料を取るようになった。各地にも同様のものが誕生したが、1882(明治15)年頃までには他所のものは淘汰されていったという。なお、「造り菊」の名称は、明治期の印刷物では「菊細工」「菊人形」(以下「菊人形」と表記)となっている。
写真は「菊人形」の興行で賑わう明治後期の「団子坂」。右に「植惣」、左に「種半」の幟が出ている。「団子坂」には、江戸末期頃から植木屋が経営する、庭園も鑑賞できる茶屋が数軒あった。
MAP __【画像は明治後期】
「団子坂」での「菊人形」が最盛期となる明治20~30年代には、「植梅」「種半」「植惣」「植重」の四大園を含む20軒以上が「団子坂」沿いや周辺に軒を連ね、趣向を凝らして競い合うようになった。
「団子坂」での「菊人形」は、明治末期頃まで賑わったが、その後衰退していった。「菊人形展」自体は全国的な流行となり、各地の遊園地などで行われるようになった。「菊人形展」は戦後も人気の催しものとなり、現在も一部の地域や施設で行われているが、近年は後継者不足などから減少傾向にある。
「団子坂」の地名の由来は、「団子のような石の多い坂だった」、「昔、団子を売る茶店があった」などの説がある。かつては、坂上から「東京湾」の入江まで望むことができたため「潮見坂」とも呼ばれている。森鴎外は、この坂の上に1892(明治25)年から没する1922(大正11)年まで自宅を構え、坂名から「観潮(かんちょう)楼」と名付けた。「観潮楼」跡地には、2012(平成24)年に「文京区立森鴎外記念館」が開館している。
MAP __(文京区立森鴎外記念館)